人間は「じんかん」と読んで「人の住む場所、「にんげん」と読んで「人」の意味というように使います。いまは「じんかん」はまず使われません。いずれにしても中国由来の文字です。日本語の起源はいまだにはっきりせず、文字はないとされます。カタカナやかな文字は漢字から取られたものです。でもかな文字は独特で、曲線のみで構成されされます。文字がない時代にも、もちろん話し言葉はあったわけで、その特徴は一音に意味があることだといわれます。たとえば、あ、い、う、という音はそれぞれ、一つとは限らない意味があり、それにたとえば、ま、という、これも一つは限らない意味がある一音を加えると、あま、いま、うま、となって、新しい意味が生じます。当然ながらこの複合語の意味は一つと限らず、複数の意味を有します。
話し言葉は、独り言と、二人から数人の間での会話、そして大勢に向かっての情報伝達があります。その中でとりわけ発達したのが、二人の会話です。どう発達したかというと、まず、あなたとわたしのそれぞれの呼び名です。時と場所と状況によってさまざまに変わります。時と場所と状況はTPOというのですが、「場合」が、ふくみと広がりをもたせた、最もふさわしい言い方です。不思議なことに、お互いに対等な呼び名がないのです。英語では、youとIしかなく、対等な呼び名です。親密さを表すときは名前を呼びます。
あなたとわたしを指すのに対等な言い方がないということは、文化の根底にかかわることです。それで、日本列島とアメリカではずいぶん文化が違うということを忘れないようにしなければなりません。呼び名の不思議さの第二は、同じ言い方で意味が逆転する言い方があることです。お前、貴様は尊称だったのが、罵り言葉になっています。あるいは上から目線の言い方とされます。お前が打たなきゃどうするという意味の応援がいまプロ野球で問題になっています。お前という言い方が100パーセント尊称ではなくなっているところが問題なのです。
あなたとわたしの呼び名について、だんだんと核心に触れてきますが、第三に、てめえ、とか、おのれ、という一人称が二人称として使われることです。手前どもという言い方は商人言葉として残っていると言えますが、手前、己れはほとんど二人称として使われます。どうして自分を指す言葉を相手に対して使うのだろう。これはたいへん大事な疑問で、一つには相手の目線、立場、あるいは相手の身になっての発言なのだ、という説明があります。
夫婦はお互いになんと呼ぶか苦労します。でも子どもができると、たぶん、ホッとして、たいていは、お母さん、お父さんと呼び合います。これは子どもの身になっての、子どもの立場からの呼びかけなのです。
関西か、大阪でか、お母さんに、子どものことをなんと呼ぶかというアンケート調査がありました。自分と呼ぶという回答が、たしか70パーセントに及んだ、と覚えています。とくに子どもを叱るときはそう呼ぶのだ、とありました。「自分、何したと思っているの!」。これは東京弁ですが、「自分」という言葉が発せられたとき、その言葉は発した本人にエコーのように戻ってくると思われます。
わたしのことを自分と呼ぶのは、軍隊や、警察や、運動部では実際にあります。内心の自問自答のような場合は、男にかぎらず、ふつうに使っています。それだけに、相手が自分の子であっても、いや、自分の子だからだか、「自分」と呼びかけたとき、自分にも呼びかけているという心理が働くと思われます。「自分」と呼びかける自分の声を聞きながら、自分も呼びかけられていると、心のどこかで思うかもしれません。そして、そのことが、かつては実際に臍の緒でつながっていた記憶とつながるということも起こりながら、この子とは簡単には切れない絆で結ばれているという半意識的な思いがやってくるかもしれません。半意識とは意識的にはっきりというほど強くなく、無意識にというよりは自覚している状態です。
このような母と子の絆を土台として、一般に、相手を一人称で呼ぶ場合を経て、相手をあなたを指す二人称で呼ぶ場合にも、あなた―わたしが、あなた―あなたであったり、わたし―あなたであったり、わたし―わたしの関係であったりすることが起こります。そして、このような関係すべて、あるいはこのような関係が、話しの性質によって、複雑に入れ替わるというような状態がお互いに意識されて、ついには、あなたともわたしとも言わない主語のない日本(列島)語になっていった、というふうに考えられます。