日本では地平線はなかか見られません。水平線は地平線より多く見ることができ、その先はどうなっているのだろうと、子ども心に思い、また私たちは球面の上に生きているという実感を起こさせます。平面といえば、アメリカには平面協会というような団体があり、地球が丸いとはNASA(アメリカ宇宙航空局、1958)の陰謀だと主張する人々がいるそうです。アシモフは科学読み物をそれはたくさん書いた科学者ですが、1平方マイル(1.6平方キロ)はほぼ平面としてよいと言っています。
地球が丸い、というのは同語反復ですが、地球という漢語を名付けたのは、フランシスコ・ザビエルよりすこし年下の、中国に初めてキリスト教を伝えた、マテオ・リッチです。地球は16世紀に中国から伝えられた言葉ということがわかります。地球は、では英語ではなんというか、第一にはアースでしょう。そしてアースは大地です。直截に球を表すのはグローブですが、大きな広々とした大地としての球体ということになると、やはりアースです。そしてもう一回日本語に帰ってくると、地の玉という一つの言い方しかないのに気づきます。きっと、平野とは言うものの、広大な広々とした大地は少ないからかもしれません。
埼玉にいたころは家の周り1キロは平坦という感じでしたが、横浜に来てからはコブコブだらけのようで、無駄な坂が多すぎる、というのを耳にして、言いえて妙と思いました。住む場所が心に与える影響は大きく深いと言われます。逆に言えば自分が思い考えることや感情に風土が大きく関わっているという自覚が大事だと思います。
地球規模となると、地球の風土とは言いません。きっと、地球の他に人や生物がいる星や惑星が見つかっていないからです。風土は歴史も含めて、違うとか他にはないという意味が含まれているのです。それで地球というとみんな同じ思考や情感に心が向きます。その最たるものは、地球は丸いこと、1日に1回回転すること、朝太陽が昇ることのように思われます。地球は直径は1万キロを超え、重さとなると兆トンという単位で60億・兆トンというのですから、どのくらいの重さだろうと思っても想像できません。
そして「日はまた昇る」のです。お日様は動かず自分が一回転してまた出会ったとはとうてい思えません。夕方もそうです。「月は東に日は西に」。月は昇り日は沈んでゆくのです。昇ると沈むは上と下のように、私たちの気分に大いに関係します。夜寝ないように強制すると、人は驚くほど早く死にます。そして朝、陽を浴びることは体内時計の調整に必須のことです。
「日はまた昇る」と書きました。「陽はまた昇る」は谷村新司の歌を思う人が多いと思います。この歌は太陽は燃えているということが下地になっています。「日はまた昇る」はヘミングウエイの第一作品で、扉に旧約聖書の「伝道の書」の冒頭部分の詩句が引用されています。その詩句の「日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く」が「日はまた昇る」という書名の下敷きになっています。
「伝道の書」は「空の空、空の空。いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」で始まります。仏教的でもあります。実とはいえないこの世界で、実を目指して苦労して何の意味があるか、与えられた食べ物を食べ、与えられた飲み物を飲んで、夫婦相い和して暮らすがよい、という教えです。人が、よい目的をもち、その実現のために励み努力する、その過程で人はいがみ合い人を殺さなくてはならない、というのであれば、いくらよい目的であろうと、その目的は捨てたほうがいい、という意味がまず浮かんできます。
今日は昨日の繰り返しだ、明日もまた今日のようだろう。なにか大きなことを言おうとしています。小さいことで言えば、違うことはそれこそ無数にあります。同じことは一つもないと言っていいくらいです。それを一言でいうと無常ということになります。何一つ変わらないものはないのです。片方でなにかしっかりしたものは何もない、ただ繰り返しだけがあると説き、片方では変化のみがあると言います。
「海は繰り返しの大切さを知っている」(児童文学 工藤直子)はわかるような気がします。カリフォルニアでは40日も真っ青な空の天気が続く」(文学 リービ英雄)となるとわかりません。ここは晴れているのに一町先は雨、と言われるような、微気候の四季がめぐる風土に住む私たちは、無常のほうが身に沁みます。そして変化極まりないということから、定まった、変化しないものは、ないのではないかと思って、「空」を導く、というか、「空」にたどりつくのです。ここには、実とか仮りとか虚とか、という考えが絡まっているのです。次回はそのことと関連して「風土」について述べます。