生まれ育った土地の、ほかの土地とは違う特性は、心や体に刻み込まれます。それは自分が生まれてからの刻み込みだけでなく、母親や父親から受け継ぐ遺伝子にも刻印されているのです。農耕が始まって人々が、移動や流浪、漂泊をやめ、落ち着いた定住を始めると、風土が発生します。
風土とは、私たちが住む場所のあり方です。人間が住んだことのない場所、例えば、原生林とか、人間がまだいない地球には風土がありません。エベレストにはずいぶん人々が登頂するようになりましたが、そこに山がある、だから登る、というかぎり、エベレストの風土はありません。それは人間の自然の征服の証しの一つです。
征服とは、相手をねじ伏せる、屈服させることです。相手とは、かたくるしくは対象といいます。さらに相手と自分が切り離せる、つながっていないとみなせるとき、その相手を客観的対象と言います。例えば、鉛筆が机の上にある、というとき、鉛筆はわたしと違う、はっきり別なもの、わたしが机を離れても追っかけてこない、ということがはっきりしていて、そしてわたし以外の多くの人が、そりゃそうだと、そのことを認めてもらえると期待できるとき、その鉛筆を客観的対象といます。
客観的対象と書くと漢字だらけで厳めしいのですが、わたしとは切れている、わたしとは関係のないと、ひとまず見なすことができるもの、と言えばいいでしょうか。でも、そういうものはあるか、と言われると、難題ですと言わざるを得ません。
空の月は客観的対象か。お月さま、というと、もう違うようです。お月さまがついてくるよ、どうして、と問われて、きっとお月さまは君のことを好きなんだよ、と答えると、月はもう客観的対象ではありません。明恵上人と月、となると、奥が深くなります。月がわたしか、わたしが月か、というのです。川端康成がノーベル文学賞記念講演で取り上げました。
虚心坦懐に見る、という言い方があります。自然科学で、ものごとを観察するときの要諦、肝心かなめのことは、と問われて、そう答えることが多いのですが、間違っているといわれます。心を無にして対象を観察しても何も見えてこないというのです。自然科学の作業はまず仮説を立てることです。例えば、鳥の卵はすべて丸い(立方体のサイコロやコーンのような角(かど)がある円錐型はない)とします。そして第二に実例を集めます。千種類集めたけれど、すべて丸い、となれば、そろそろ仮説は正しいということになってきます。そして観察や収集を続けて、仮設の確かさを高めていきます。
しかし、その過程で、一つでも角のある卵に出会ったら、卵は丸いという仮説は捨てなければいけません。すなわち、仮説の正しさが認められても、その正しさを確かめ続けることが必要で、その作業を検証と言います。検証がそもそもできないとき、その事実は科学上の事実ではないとします。検証にはその事実を再現することも含まれます。それで神のように具体的な像を結ばない存在や、幽霊のように再現しようと思ったら再現できるというふうにはならない存在は、科学上の事実ではないのです。
バートランド・ラッセルという英国の数理哲学者がいます。非核の訴えを続け、アインシュタインとともに提唱したパグウォッシュ会議には、1957年、日本からも湯川秀樹や朝永振一郎、小川岩雄が参加しました。ラッセルは平和運動で46歳のとき投獄され、非核の座り込みでは89歳で投獄されました。1970年97歳で死去したのですが、ノーベル文学賞も受け、1945年には『西洋哲学の歴史』を書きました。
その中で、日本の19世紀末から20世紀半ばまでの現人神について、次のように述べました。「日本人は1968年以来、ミカドは太陽女神の子孫であり、日本は世界のどの地域よりも早く創造された、と教えられてきた。学術的に、このような説に疑問を呈した大学教授は、反日活動の故をもって追放された」。現人神を定めた明治天皇制は1946年の天皇人間宣言で終わりました。しかし、政治、国家、宗教では、科学、学術が無視され、あるいは弾圧される例は、20世紀後半から21世紀の現在まで、世界でしばしば繰り返されてきました。日本も例外ではありません。
科学、学術は論理で構成されます。しかし人の心は論理とともに、非論理、情の世界でもあるのです。、しかし、とまた言いますが、その世界は二人から始まり、顔見知りのせまい世界です。それをもう少し広げると言ったらいいでしょうか、そういう世界を風土といいます。エスペラント語を話すコスモポリタンを思い浮かべると、その逆が風土に生きる人々です。風土に戻ってきました。次回も風土について述べます。