私たちの思いや感情や行動はそのもとをただすと、見たり聞いたり嗅いだり触ったり食べたりことにあるとされます。そのような五感がどのように、主として脳に蓄積されるのか、わかったとは言えません。それである状況で、とっさに出る反応は、一つには反射といわれ一つには本能によると説明されます。本能は結果ですが、その来歴はたどれず、いのちの歴史の中に溶け込んでいます。本能はある状況での定型的な反応を指していますが、人では本能はあるのか、あるとすれば、それはどのような状況でのどのような反応でしょうか。
動物や昆虫の本能は恐るべきと言いたくなるようなものがあります。ある昆虫は卵を産むと自分に麻酔と防腐の処理をして、死んだようになります。卵が孵ると、そこにある食物の大きな塊を食べて成長します。それは母親の身体なのです。ずいぶんラフな言葉を使いましたが、母親の、次世代を残したらそれが自分の寿命の終わりであり、同時に次世代が育つための必須の食物になるという、それこそ本能というほかない行動は理解不能です。孵化した幼虫がそこにあるものを食べるという本能はまだ単純のようで、わかるような気もするのですが、その幼虫がメスになって(メスと決まって生まれてくるということはすぐには言えません)また次世代を残して、その子どものための、自分を腐らないようにした食べものになるというレベルになると、お手上げです。いのちが続いてゆくということはすごいことです。
哺乳類となると、生まれた子はそこにある乳首に吸い付き栄養を摂ります。本能です。人は哺乳類ですが、そこにある乳首は母親が子どもの口のそばに持って行った乳首でもあるのです。乳首を持ってゆくのは教わったり見たりしたことか。もしそうであれば本能とは言えません。でも生まれた子が乳首に吸い付くのは本能と目されます。そういうことからはじまって、人は本能をもたない、本能とは関係のない理性を付与されているという西欧の人の定義に対して、主として生物学の方から、人も動物であるという見方が強まって、本能はないという見方が否定されるのですが、おおむね本能を失ったことは確かです。
ところが、人の最大の特徴である言語はどうであるかという問題は、動物に起源を求めるにしても、ギャップが大きく、説明がなかなかつかないのです。それに対して、言語学の第一人者のチョムスキーが、言語は本能であるという説を出しました。現在、これをおいてほかに言語の起源の説はありません。
いま、こうやって書いているのも元をただせば、説明不能の本能によるのだとという思いがやってくると、なんとも言えない気持ちになります。そして「文書は速やかに適切に処理され復元不能です。」というような言説を聞くと、頭の中が乱反射を起こしたみたいになって、なんのための言葉かという問いが渦巻くのです。
言葉は本能であるかもしれませんが、現在、世界に減少しつつあるとはいえ、6000くらいの言語があるそうです。それぞれいろいろな類縁関係をもちながら、文字と合わせて、その使われている地域の特性を反映しています。その地域のあり方を風土と言います。風土はその地域の場所や気候に左右され、またそこに住む人がかかわって形成された歴史的な場であり、言語はその場の特性を反映します。
では日本語はどうか。あるいは人間という言い方はどうか。あまり考えてこなかった、つまり当たり前のように使ってきたというのが実情です。英語をはじめとする4か国の西欧語を習い始めて、違和感がどうしても消えず、外国語を使いこなすまでに至らないのですが、三十代の初めから、お前は個人かという課題をのっぴきならず突き付けられて、次第に日本語を使う日本列島人の抱える特性、あるいは問題に関わるようになってきました。
現在の立ち位置を端的にいいますと、人を指す人間という言い方は極めて特殊であること、日本語には主語がないという主張に大きく賛同している、ということです。個人を西欧的な個人、すなわち、義務と責任をわきまえた主体であり、このわたし、自己、自我が確立し、自立した存在を大文字の<I>とすると、日本語で考え、しゃべり、書く、このわたしと称するものは、どうあっても<I>ではない、という思いに浸されているという状態です。
日本語の起源はまだ明らかではありません。地図を見ていると、中国や朝鮮半島とのかかわりが一番あるように思われますが、ポリネシアとのかかわりは否めないという説やシベリアなど北の影響も主張されます。極東の島として鎖国も可能になる地理を考えると、特異性の醸成も頷けるものがあります。日本の風土とわたし、わたしたちをめぐって、日本語をもう少し取り上げていきます。