2020年1月24日の被告人質問の公判を傍聴しました。
この一連の手紙の一つのテーマは理と情です。理は強さに傾き、情は弱さを振り切れないのですが、あれこれ言葉を重ねてゆくと、強さは弱さに、弱さは強さに逆転するということが起こります。そのことを意識しながら手紙を書いています。
理は客観的にものごとを見たり扱ったりすることと、ある定まった基準に基づいて論理的に矛盾なく考えてゆくことを指します。では基準とはなんでしょうか。絶対とか普遍、それに真実、というと途端にむずかしくなります。おおよそわかりそうなのが、「平行線は交わらない」という基準です。ところが曲面上では交わることが起こります。それで「平面上では平行線は交わらない」という基準にしました。いくつかのこういう基準があって、その土台に立って、その土台から離れないで、論理という理を展開してゆくのが数学です。
「客観的に」という言い方は、そもそも「的」と言っているので、厳密性は望めません。それで、日常的には、他人事のように見なしたり考えたりすることを表しています。つまり、他人事とは自分に関係のないこととして、考えの中に一切自分のことは勘定に入れないで扱えるものごとがある、ということです。でも「風が吹けば桶屋がもうかる」という諺のように、まわりまわって自分が関係していることに気づくというものごとがあります。それで自分に関係ないことだとしても、そのうち自分に関係してきてしまうかもしれません。もうひとつ、自分が関わっていることははっきりしているけれども、さしあたりそのことは棚上げにして考える、という場合もあります。
前置きが長くなりましたが、この公判について、やや他人事のように考えてゆく機会ととらえたいのです。裁判とはちがう意味をもつ公判です。有罪か無罪かの結果を目的とするのでなく、事の次第を追いかける過程を重視する公判です。事の次第には出発点があります。その出発点において、前後の見境なく、事の善悪なく、なにがなんだか皆目わからずに事に及んだのだ、という主張がなされたとします。当然ながら、どうしてそんな状態になったのだという疑問が湧いてくるはずです。 ここのところが大事で、たぶんみんな知りたいところです。それを時間がないとか、今日は弁護人の申し出により閉廷というような扱いでは、大きなしこりが残ります。この裁判(罪を裁く)では、検察、弁護、裁かれる本人とも事実は争わないとしているので、事の次第を明らかにした上で情状を酌量する、という公判がもつ意味が大きいのです。
ひとつ、昨年の児童虐待通告は9万8千件という問題を取り上げます。子どもの前で親が配偶者などに暴力を振るう「面前DV」が4万4千件、子どもに対する身体虐待が1万8千件です。子どもの抵抗は限られます。まして幼児は大人の暴力には無抵抗です。大人同士の軋轢の矛先を子どもに向ける、あるいはうっぷんを直接子どもに向けるのは最も卑劣なことです。それは教えられるまでもなく、大人が誰しもわきまえていることだと思います。それなのに、どうしてこんなに児童虐待が多いのか。統計を取り始めた2004年から増加の一途をたどっています。
子どもに罪はありません。責任能力はほとんどゼロから始まって齢とともに身につけてゆきますが、大人の責任能力とははっきり区別されます。親権によって保護されていることがその一つの理由です。その親が子どもに暴力をふるったり、死に至らしめたりする。いったいどういうことでしょうか。暴力をふるう親本人の問題とは何でしょうか。そういう親が増える社会の状態とはいったいどういうものでしょうか。
家庭内DVの夫、あるいは父親は、DVが始まると抑えがきかない、ところが、ふつうはとてもやさしいときがあると言われます。まるで二重人格のようです。二重人格ではどっちの人格が現れるか、いつ入れ替わるのか、本人にはわからないそうで、そして日本列島には少ないと言われます。そもそも人格という考えがちがうことと、二つのことが判然とちがうということが、万事につけてない風土と関係しているからかも知れません。
要は、二重人格の人が起こしたことに本人の責任はないということです。二重人格は病気なのです。子どもに暴力をふるい、死に至らしめたりする、二重人格のような親も病気なのかも知れません。病気には先天性と後天性があり。後天性には環境や社会のあり方がかかわってきます。そして、子どもに対する暴力というとき、では、子どものような人に対する暴力はどうなのか、という疑問が起こってきます。認知症の人たちは症状が進むにつれて子どもに還っていくようだと言われます。次回、この続きを書きます。