もう手紙は届かないかもしれません。でも特定の許可された人を通じて、まとめてかどうか、新聞は届くかもしれません。返信を出し続けようと思います。
父と母を思うと、父は近いとは言えない存在だったと思います。昭和15年ごろ、夕食時に父がいると、食事が終わった後、姉とわたしとすぐ下の弟の三人が直立不動で軍歌を歌ったことを思い出します。進軍ラッパをしんぶんラッパと歌って注意されたことを覚えています。父は結核で昭和24年に亡くなりました。父は家の中では別格でした。戦争中は疎開で離れて暮らしましたし、わたしは喘息で、昭和16年国民学校1年生のときから転地療法で海辺で過ごしましたから、よけい父の思い出は少ないのです。家族と合流して1年半で父は亡くなるのですが、床に臥した父から大きな奴凧の作り方を教わりました。絵がみごとでした。
人類史的にも父が居るようになったのは新しいことです。そして哺乳類では母との結びつきは格段に強くなりました。まず乳房を求めます。カンガルーは1センチくらいで産まれて乳房まで自力でたどりつき、吸い付いて離れなくなります。半実写の映画「小熊物語」(1988.フランス)があります。手元にそのビデオがあるのですが、父性愛の発露というような場面があって話題になりました。母と別れた小熊がハンターに打たれ傷を負った強大なオス熊と出会い、その傷を一生懸命舐めるところから物語は始まります。6年かけて撮られたそうです。
人の場合、父性愛はあるのですが、絆というよりは「自分を越えてほしい」というような社会的な愛に傾いていると思われます。それに比べると母性愛は絆です。縛って自由に行動できなくする、過保護、あるいは傷口を保護する、絆創膏などが思い出されます。ただ欧米との比較では、乳幼児により多く声をかける米国に対し、日本ではより多く触れるという調査があります。そのことが母の懐に表されていると思います。
ルース・ベネディクトの「菊と刀」という本があります。当局への諮問という性質のもので、アメリカの日本占領政策に対し、日本を理解し、やった方がいいこと、やらない方がいいことを提言しました。その中に子どもについての章があって、日米の違いを述べています。いちばん大きな違いは自由についてで、米国では、子どものとききびしく、成人で自由が最大になる点です。日本では子どものときが最大で、成人できびしく制限されます。 ただ指摘されるのは、男の子と女の子では大きく違い、男の子はチヤホヤされ、甘やかされ、人生の中で一番いい時を過ごすということです。それで大人になって規律にしばられるとき、思うのは子どものときで、母、母の懐なのです。そのことがあって、女性に対して、母なるもの、母としての女性を求めるというわけです。母とはわがままを聞いてくれる、受け止めてくれる、そして、その上で、深層意識的には、厳しい、生殺与奪権を持つような存在なのです。
11年前、1万年前の暮らしを続けているというアマゾンの先住民ヤノマミの暮らしがNHKで紹介されました。圧巻は、平均14歳で出産という、14歳の女性の出産場面です。森の中で産みます。周りは集落総出の女性が取り囲み、一言も言葉を発しません。産んだ、まだへその緒のついた嬰児を前に、14歳の女性はじーっと沈思しています。そして抱き上げました。抱き上げた途端、嬰児は精霊から人になり、女性は母になります。抱き上げないと嬰児は精霊のままアリ塚に入れられ食われ、自然に返ります。子の誕生は母の決断によるのです。
心理学でフロイトの次に有名なユングは誰の心にも太母がひそみ、太母と対決しなければ、きつく言うと、太母殺しをしなければ、人は一人立ちできない、自立できない、と言います。日本でも鬼子母神という怖い神がいますが、心の中にいるわけではりません。。
日本では、この太母殺しができないと言われます。すなわち母親との自他分離がはっきりしないということです。鏡を見て自分だとしっかり認識できないチンパンジーに比べると、人は三歳ごろまでに自分がわかり、言葉が話せるようになりますが、そのかなめが母親との分離なのです。私たちはこの分離が不完全で、兵士が最期に、お母さんと言って死んでいくことが、その例としてよく挙げられます。
いまはどうなのでしょうか。戦後、生活は大きく変わりました。ただ、飢え感覚がなくなり、生活物資が行きわたり始めたのは1970年代に入ってからと言っても過言ではありません。生活が変われば考えや考え方も変わります。その中心は、自由を求め、他人に干渉されたくない、という気持ちだと思います。人間関係の基は母と子の関係です。西欧のように心の中の母と袂別できたでしょうか。袂別できたと思ったら独りぼっちになってしまった、ということはないでしょうか。個人ということについて次回書きます。