当事者とは、ある事柄について直接の関係がある人を言います。その事柄に直接ではありませんが関係のある人を従事者と言います。例えば医療で言うと、当事者は医師と患者ですが、医療従事者は多種の従事者がいっぱいいます。患者の家族も従事者です。医療従事者は普通に言われるので違和感はありませんが、患者の家族が従事者だというと、なんだ?という気持ちになります。ところが関係者というと、家族としては、自分たちはもっと密接な、生活や人生に関わる事柄なのだと言いたい深刻な場合が多々あります。そういう意味では、お医者さんが当事者と言っても、お医者さまには死は毎日のことかもしれませんが、私にはたった1回のことでございますという母親の訴えは準当事者のものと受け止めたくなります。
今のところ、準当事者という言い方は使われないようで、といって、当事者にかかわりのある人を関係者とか従事者と呼ぶのもしっくりしません。とはいうものの、従事者という言葉をとりあえず使います。いわゆる事件が起こった場合、当事者は加害者と被害者です。事件が偶発でなく意図して起こされた場合、そして被害者が亡くなった場合、被害者の従事者の怒りは加害者に向けられます。被害者になされた行為、被害者の無念の思いを直接加害者にぶつけたいと思います。
しかし従事者の被害者との関係を薄めてゆく、あるいはひろげてゆくと、そのような従事者の関心は、もちろん加害者への怒りはありますが、だんだんと加害者の動機とか事情、そして加害者という当事者の従事者の方に関心が広がってゆきます。当事者は孤独だったと言われる場合がありますが、人は人と関係なしには生きられません。必ず関係のある従事者がいるはずです。影響を強く受けた人もそのなかに入ります。すると歴史上の人物で本や映画で知った人も広義の従事者にいれるということになります。
日本ではそういった場合の従事者の抜きんでて最初に思い浮かぶのは、母親です。太平洋戦争で兵士が死んでゆくとき、お母さんと叫んだといういうことは多くの記録に見られます。西欧ではそういう記録は、あるとしても少ないと思われます。お母さんという人々の依りどころということを考えますと、日本特有の心情としての甘えが挙げられます。甘えは母に対する甘えからはじまって、日本人の心情に根付き、終生作用すると思われています。
西欧では甘えという言葉がありません。では甘えそのものがないのかというと、そうではなくて、甘えはふだんは無意識に働いているので、西欧の場合はその無意識の層の深さがより深いのだと考えられます。深層意識の層がより深部になるのです。西欧の拠りどころの基盤は神です。<神のご加護を>は国歌をはじめとして、人々の日常に根付いています。神というと日本の神も連想されるので、西欧の神はゴッドと言わなければならないという識者もいます。
ゴッドはすべての規範です。最終の拠りどころです。そのことが無意識の層に定着するには、生まれたときからの育てられ方が大きく関わります。一人で寝て、決められた時間に授乳され、ぐずっても泣いても取り合ってもらえない。アメリカの日本占領政策の提言として書かれたルース・ベネディクトの「菊と刀」に、母親と赤ん坊が一緒に寝るような日本の子育ての批判として、アメリカの厳しい子育て一端が書かれています。自由という面ではアメリカの赤ん坊の自由はゼロ、成人の自由は100。それに対して日本の赤ん坊の自由は100、成人の自由はゼロだと指摘します。
実はアメリカでは1946年に「スポック博士の育児書」が出て、爆発的に売れます。世界中に広まって日本でも評判になりました。母親はもっと自然に子育てしていいのだよという、小児科医のベンジャミン・スポックの本です。でも消えてしまいます。理由はベトナム反戦思想を持つようになったから、と言われるのですが、なんだかなあという思いがします。もう一つジョン・ボウルビィの「愛着理論」が1962年に出ます。アタッチメントというのですが、くっつくという意味合いからふれあいが大切という説です。動物では最初に見た動くものを母親と見なしてその後にくっついてまわるという「刷り込み」があります。人は複雑であまりに未熟状態で生まれてくるので、「刷り込み」はきちんとはなされませんが、でも生後6か月にかけて類似のことが起こります。その際、信頼し安心できる存在はもちろん母親が第一ですが、母親に代わる女性、あるいは男性でもずっと世話をしてくれる人であれば構いません。この信頼感は一生無意識の層に留まりますが、成長過程の状況や思想のあり方で活性化の度合いは違ってきます。次回この話しを続けます。