知は力について、知力がどのようにわたし達の生き方や、暮らしに関わっているか、あるいは、金力とか権力と結びつくのか、を述べようとして、記憶の不思議さ、脳の働きのわからなさの方に話がいってしまいました。
記録は正確さがだいじですが、その方はいま、コンピュータが引き受けていて、その容量は途方もないものになっています。それに比べると記憶は、憶測の「憶」の字が入っているように、まちがいや推量、想像や創造、一口で言うとファンタジーにつながっています。
ファンタジーは超能力を動画にして楽しむということが今、流行りですが、それにはコンピュータ処理が欠かせず、コンピュータという機械の実現はまさに知力の発展によるものです。それで、知は力にもどりりますが、知力のないものは弱者である、とか、人間の条件を満たしていない、ということのつながりをすこし追っかけます。
「知は力なり」と言ったのは、イギリスのフランシス・ベーコンです。1620年のことです。そのころ、日本は徳川秀忠が将軍で、年表を見ると、さしたる事件は起こっていません。イギリスでは、この年、メイフラワー号で、イギリス人がアメリカに渡りました。魔女狩りが全盛期に入る時代で、人びとがいかに魔術にとらわれているかを示す一方で、科学の興隆が始まっていました。
関ヶ原の戦いがあった1600年、フランスでジョルダノ・ブルーノというお坊さんが火あぶりの刑に処せられました。宇宙には地球のような天体が300くらあるという自説を曲げなかったからです。このことは空想や思弁を排して、事実に基づく実証的な科学の世紀の幕開けだといった哲学者がいます。
ベーコンは、いまの文部大臣や法務大臣を兼ねる行政のトップの高官で、汚職でものすごい罰金とロンドン塔に終生監禁の刑に処せられます。実際には数年の監禁でした。ただ当時、収賄は日常茶飯事で、裁判官も例外でなく、どんなにもらっても、そのことで判断を左右されないことが有徳とされました。だからベーコンも金銭の汚職だけで重罪になったわけではありません。
そういうわけで、ベーコンは科学者とか思想家というイメージからは遠いのですが、魔術や先入観、流布している法則に振り回されずに、事実に基づく科学を進めようとしました。まずはひとつのことについて実際の例、現物を集めます。そして多くの例からそのことについての事実を確定するのです。例えば鳥の卵は丸いという思いについて、違う種類鳥の卵を数多く収集(切手集めともいわれます)して、みんな丸ければ、鳥の卵は丸いという事実が成立するのです。こういう手続きを帰納法と言います。それに対して、例えば平行線は交わらないということから出発して、その枠内で考えを進めて行くやり方を演繹法と言います。
鳥の卵を調べて行って一万個目に三角の卵に出会ったら、卵は丸いという事実は事実でなくなります。でも杞憂のことを思うと、実際は「卵は丸い」で事を処していいのではないか。杞憂とは、空が落っこちて来ないか心配で、事が手につかなくなることを指して言います。ベーコンは現実的に科学を進めようとしました。その目的は、自然の支配です。ダイナマイトで強大な岩を砕く、まさに知は力なのです。
さらに大事なことは、知は力とともに、人間や自然を含めて、みんな機械のようにみなしていいのではないかという考えです。機械は部品に分解できます。機械は故障したら油をさしたり修繕します。主たる修繕は部品を取り換えることです。その程度が激しければ、つまり老朽化すれば、機械は廃棄されます。
人間の精神は自然に属さない、でも身体は自然に属するという考えを心身二元論というのですが、この考えに基づいて、人間は機械だという説も出されます。そして自然の征服が豊かさと幸せをもたらす、それは科学知によるという思想が、今から400年前に成立したのです。
その100年前、ヨーロッパでは、カソリック教会が売りつける免罪符(買えば罪が軽くなるいうお札)に抗してルターが宗教改革の口火を切りました。このプロテスタントの思想と運動に重要だったのは、「働かざる者食うべからず」でした。批判と攻撃は、働かない王侯貴族や司教、不在地主に向けられ、1789年のフランス革命に至ります。
この二つの思想、一つは人間も機械であり、役に立たない機械は捨てる、一つは資本主義に至る働かない者、働けない者は社会的な成員とは認めない、が弱者にどのような影響を及ぼしたか、次回、『弱者を捨てる―アメリカ型福祉観への問い』(阿部秀雄、1978年)などを取り上げながら、見ていこうと思います。