毎日の暮らしの中で、特に家の中では、あなたと呼びかける場合は少ないと思います。夫婦で主人という考えが生きていたときは、妻は夫をあなたと呼ぶ機会は多かったと思います。そういう記憶をたどると、私の場合は、子ども時代の昭和10年代ということになるのですが、主人、父親は別格でした。よく言われるのですが、茶碗も箸もおかずも特別なのです。
そういう夫、主人を、妻があなたと呼ぶのは、親しみを込めた呼び方で、ふつうは言いません。東京では、東京に移住してきた中間から支配層に属する人たちは山の手と言われ、江戸に居つきの庶民は下町と呼ばれました。下町ではあなたがあんた、あんた!に変化します。総じて日本では、夫婦が互いにどう呼ぶか、苦労しています。子どもが生まれると、わが家でもそうですが、お母さん、お父さんと呼び合うことができるようになって、ホッとします。
いまは、お母さんと呼んでくれるな、わたしにはちゃんと名前がある、と主張する女性が少なからず居ることは承知しています。お母さんという言い方には、子どもを産むとか子どもを育てるという意味合いが含まれていて、そこに女性を縛り付ける歴史的風潮が現れていることは否めません。
ただ、男の方の思いを述べるとすれば、もちろん、男という自己規定がそもそも歴史的な偏狭だという主張を拒否するつもりはありませんが、私は自分を男だと思っていますので、自分なりの男としての思いを述べようと思います。
日本は東洋的で、昔をたどろうとするとぼおーっとひろがり、未来を見据えようとすると、未来もまたぼおーっと広がってします。はっきりしているのは続くという気持ちです。いろんなことが絡まり合って、なっていきます。具体的な目的を立て、その達成に努力します。でもなんのための目的かというとはっきり言えません。私の関わってきたことのなかで、大学に入るという目的もそうです。何のためにと問われると、本心は入ってから考えるという思いです。入ってみなきゃ考えてもむだという思いです。それで面接でそう問われる場合に、判で押したような答えが多いということになります。私も少しばかり面接の経験がありますが、中国からの受験生が何人かいて、その答えがみんな親孝行のためでした。ウソとは思えない、なんだか真実味がありました。
日本では、親孝行のためという答えはまずありませんが、社会のためという趣旨の答えは多いです。社会とは、と重ねて問うと、口ごもってしまいますが、意味は人のために尽くしたいということで、親孝行から範囲は広くなっています。私も同じ穴のむじなのようなのですが、どうして論理的な理念的な答えができないかというと、体系的な閉じた世界観がないからなのです。始めと終わりが霧の中のようにぼんやりている世界、というより、世の中と言った方がなじみがありますが、そういう世の中では、現在、今日がいちばん意味があります。
明日は明日の風が吹くのですが、その風はいろんなことが絡まり合って〈なる〉のです。風は造ったり造られたりするものではありません。もちろん扇風機で空気をかき回し送ることはできます。でも、明日の風はつくることができないのです。〈つくる〉は人の意志に基づいた人為です。もちろんアリやハチもつくりますが、その意思は人よりはずっと自然に溶け込んでいます。そして自然とはというと、おのずからしかり、〈なりゆくものこと〉なのです。
自然は〈じねん〉と呼びます。150年前の明治時代に日本に入ってきた〈ネイチャー〉を自然と訳したのですが、〈じねん〉と区別して〈しぜん〉と呼ぶことにしました。〈ネイチャー〉とは、神と人の間が断絶しているように、人とは断絶していて、それで机の上の鉛筆と同じく、対象物として扱える存在です。
〈ネイチャー〉は神から人への贈り物で、それゆえに人は動物保護と同じく、管理責任があります。そして人は知力を使って〈ネイチャー〉から財を掘り出すのだという考えで西欧近代は始まりました。人と自然は断絶している、人は自然ではないという思いは強く、今でも米国の世論調査では、過半数の人が猿から人へというダーウインの進化論を認めていません。
私たちはどうでしょうか。はっきり反対する人はいないと思います。〈しぜん〉と〈じねん〉がつながっているからです。そして〈じねん〉とはおのずからなり行く世界で、その中に私たちは居るのです。すると私たちは客観的な思考ができるのかという問いが生じます。日本とか日本人という大きな問題に入ってきてしまいましたが、すこし続けます。