自分の意見について少し述べようとしたところで、〈自分とは〉という問題に入ってしまいました。自分とはこのわたしなのですが、何かを〈した〉、あるいは〈してしまった〉、というとき、自分が〈した〉ということは認めるけれど、どのくらい〈した〉だろうかという思いが湧いてくるときがあると思います。
どのくらいとは割合いのことで、100%だろうかということです。うっかり〈してしまった〉と、意図して〈した〉では、割合が大きくちがってきます。割合がちがって来るとき、問題になるのは責任です。自分にどのくらいの責任があるだろうか。責任というと、かかわりがあるかどうかが問題になります。かかわりがまったくなければ責任はありません。逆にかかわりがあるとなれば責任が生じます。
責任は大きな問題ですので、あとで述べたいと思います。自分が〈した〉かどうかにもどりますと、はたから見た客観的な判断と自分の主観的な判断があります。主観的な判断と言っても、もちろん自分で客観的に見ようという努力はします。でも〈してしまった〉事情を考えてゆくと、自分のせいだけじゃないという思いがしてきます。
そしてさらに、そう思う自分がちゃんとした自分なのだろうかという思いがしてきます。このあたりのことは、理屈で畳みかけて思っているわけではではなく、漠然とした不安感というか、きちっとした、しっかりした自分という拠りどころがぼやけている感じです。 いま、こうやって書いているとき、わたしは意識しているのですが、意識は潜在意識や自分ではわからない深層意識や無意識の影響を受けていると言われます。無意識には、他の人の考えや、社会や歴史、風土が詰まっていて、父や母の元型も入っているのだと言われます。元型というと、いのちや生きるという根本に結びついてくるように思われます。
自分の意識と言っても、深層意識や無意志という氷山の一角だとすると、自分はどこまで自分なのだろうかという思いがしてきます。
自分ということについて、はっきりした定めや言葉はないものか。そう思うと〈人格〉という言葉に行き当たります。前回述べたように、西欧では人格とは、生まれるときに神から与えられるこれまでになかったたった一つのものです。
自分は、歴史を通して、またこれからの未来にわたって、たった一つの存在なのだと教わる。一つしかないもの、これは大きな拠りどころです。あなたの意見をと言われて、自分の意見をいうとき、自信がなくとも、世界でたった一つの意見だと思えば、臆することなく言えます。それはまちがっていると指摘されても、でも自分の意見ですと言えます。そしてまちがっているというよと指摘を受け入れて、まちいかどうか検討し、まちがっていたと認めるのも自分です。
そして、あんたは自分、自分と言うけどねえ、自分なんてないんだよ、と言われたりしたら、断固、絶対に反対します。受け入れません。自分は唯一の存在だからです。ここが分かれ目です。わたしは、自分なんてないと言われたら、そうだよなあ、と思って、黙ってしまうでしょう。わたしは日本語を話し書く日本人です。そして日本人の多くは、わたしと同じように黙ったり、口ごもったりすると思います。絶対ということに引っかかってしまうのです。
日本にはクリスチャンが100万人くらいいます。キリスト教の神は絶対神です。西欧中近東には絶対神を指し示す宗教が大きくは三つあります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。絶対は一つということです。ですから三つの宗教は、本来は一つなのか、将来は一つになるのか。この問題はたいへんな緊張をはらんでいて、もし戦争ということになれば非妥協的な戦いになると予言する歴史家もいます。もしそうなったら、核兵器や細菌兵器の軍事力を思うと、膚に粟が立ってくるようような思いに駆られます。
絶対がないとしたら、相対のなかで考え生きていることになります。絶対が〈一〉だとしたら相対は〈二〉です。世界にたった一つのものがあるとするとき、他のものがないので、その一つのものを存在と呼びます。〈一〉は存在と名付けるとき、〈二〉は関係と呼びます。一つのものに加え、もう一つのものが出現するとき、その出現に必要なことを関係と言い、その二つのものをつなぐものも関係と言います。
また理屈がはじまったと怒られるのですが、そこは少し我慢していただくとして、絶対とは神や真理を指し、そしてここがややこしくなるのですが、〈二〉にして〈一〉の〈人格〉を指します。〈人格〉は神に与えられた唯一のものだからです。神に与えられたということが関係で、そして人格は絶対の存在だからです。次回この続きを書きます。