今回も自分についてです。自分という問題はやっかいで、はっきりせず、この問題に係わるのは危険だという、大人あるいは識者からの忠告もあります。1990年代は〈自分探し〉ということが流行りました。わたしは1960年代末に〈自己否定〉にとらわれました。〈自己嫌悪〉が頭に居座っていて、その思いを何とか振り切ろうとするが〈自己否定〉だったのです。
〈自己否定〉はきつくて、そのゴールは死ぬというほかないように思えて、そして死ぬとは自殺か、死刑に値する何かしかないと、という思いに駆られます。でも手間とか費用とか、世間の評判とか、身内に及ぼす迷惑とか、考えるとなかなか一歩を踏み出せません。
自殺とか殺人はあれこれ考え出したら、できるものではないように思われます。考えなしの激情はあると思います。でも考えた末の激情とは、あるとしたら空恐ろしいように感じられます。直情径行と言いますが。直情とはすごく短くて、すぐに激情に代わってしまう感情かなどと思ってしまいます。直情とはあまり考えずに行動に移すことができる真っすぐな心です。真っすぐとは正しいということです。
激情はみさかいがなくなるというように、正しいのか間違っているのか判断がつかないような心の状態です。1960年代末は、もう50年をこえる昔になりましたが、全国に大学紛争が起こりました。発端は早大、日大、東大でした。原因は順に学費値上げ、23億円不正経理、えん罪でした。東大では医学部で起こった助手をつるし上げる糾弾行動で、その場にいなかった学生が処分され、法学部をはじめとする全学評議会がその処分を認めたことが発端でした。
わたしは東大闘争と呼びますが、東大紛争の背景は主として医師国家試験合格後の無給のインターン制度の問題でした。そして問題が全学に広がったのは、真理の探求の場としての大学でえん罪を認めるのか、という素朴な怒りでした。そして、そういうありえないことが起こったのは、教授や教授会の権威が封建制度によるものではないかという疑問でした。
医師になるインターン制度の無給も封建制度の徒弟奉公の名残りです。そして日大闘争はそもそも学生の自治がゼロに近いという封建制度への不満の爆発でした。戦後20年をこえた時点での、旧態依然とした日本への、若者の不満が、大学闘争が全国に広がった原因だと思います。
東大でもノンポリの学生が立ち上がりました。学生の革新的政治党派、いわゆる新左翼からは目覚めない大衆とされてきた一般学生たちでした。わたしはといえば、31歳、助手になって1年という身分でした。
助手は、ほぼ3年くらいの間の保障のない職種で、学生からみれば学生でなく、職員から見れば仲間でなく、教授会から見ればメンバーでない、という宙ぶらりんの職種です。奉公する教授の眼鏡に合わなければ、大学とは、おさらばです。つまり生殺与奪の権能を教授に握られているというわけです。
ただ、助手は学問の徒です。その道を外れてしかも学問にしがみつくとなればみじめです。助手も学生にならって、全学助手共闘会議を立ち上げました。でも、ここが限界というか、名前を隠した覆面組織でした。ただスポークスマンが一人要るということで、なんだかなあ、新米のわたしがなりました。覚悟を決めたというわけではありません。明日はなんとかなるという時世でもあったのです。 大学紛争は熱が冷めたかのように終わります。司馬遼太郎は日本人の酩酊気質の表れと評しました。酔っぱらって暴れてしゅんとする、というのです。でも、どうして大学に行くのか、どうして学問をするのか、という問いは改めて残りました。そして、大学に行くのも、教授になるのも、飯のタネという問題も残ったのです。
わたしは、結局27年間助手を続けました。そしてなぜ学問をするのかという突きつけに対して、学問をするのでなく、問学をするのだ、と答えることにしました。学問とちがって、問学は右肩上がりに究極の問題の解決を図るという姿勢がありません。進歩がないのです。問学はやってゆくとだんだん分からないということが確実になっていく営みです。問学はわからないという悟りが目的だといいましょうか。禅問答みたいですが、「悟りとは悟らず悟る悟りにて悟る悟りは夢の悟りぞ」という江戸時代の詠み人しらずの歌があります。わたしの名前が悟なので覚えたのです。悟りとは、分からないということが腑に落ちる感慨というか落ち着きのように思われます。
自分探しは危険だということから、また横すべりしましたが、もとに戻って続けます。