このわたしは、哲学者の森有正が指摘した〈あなたのあなたとしてのわたし〉というわたしであるほかないだろう、ということを述べてきました。欧米の〈自分は自分以外の何者でもない〉というはっきりした自分は、諦めるほかないのではないか、というマイナスの気持ちです。わたしはやはり強く、自立(自律)した個人でありたいと願ってきたのです。
でも、おそらくパラダイムチェンジに値すると思うのですが、最近はっきりと、わたしは〈あなたを欠くことができないわたし〉なのだと思うようになりました。パラダイムとは世界観とか価値観を意味するのですが、私たちが考え行動することの根本的な土台のことです。その土台が変わるということは大変なことです。
もうすこしパラダイムチェンジについて、付け加えておきます。パラダイムチェンジは、トーマス・クーンというアメリカの科学哲学者が1962年に提唱した、科学の価値観は変化する、シフトするという考えです。日本でもその著書が1971年に訳されて、60年代末に研究者の卵になった私も影響を受けました。衝撃を受けたというより、ちょっと軽いショックのような感じですが、それには、選んだ分野が、手先がものをいうというような、生物の実験分野だったことが関係していると思います。その分野では、本を読むなとか、前髪は短くというような職人気質がまだ残っているような雰囲気があったからです。研究者というより職人修業を始めたという気分でした。
科学をするということは真理の探究でした。そしてクーンの与えた衝撃は、絶対の真理はないということにありました。17世紀後半に打ち出されたニュートンの絶対の真理の探究がついに相対化されたというショックなのです。20世紀初頭にアインシュタインが相対性原理を発表し、光は粒子だという仰天するような説も打ち出しました。光は波に決まっているのであって、粒々という不連続なものと連続している波とが両立することなどありえません。今だって、わたしは、光は波でかつツブツブだとはとうてい思われません。
ところが、原子の構成要素の電子の研究をめぐって、ついに波か粒子かでなく、波であり粒子なのだと言われることになります。物理で量子力学という分野が確立して、1930年代からはその分野のノーベル賞受賞が続きます。その初期の一人のハイゼンベルクは「これからはあれかこれかでなく、あれもこれもだ」と言いました。どうしたって真実だと思われることは一つでなく、いくつもあるというのです。
テレビで田村由美の漫画「ミステリと言う勿れ」の連続ドラマが始まりましたが、解決解読青年という主人公の久能整が「事実は一つ、でも真実はいくつもある、一人一人の真実がある」と言います。いま、カルロ・ロヴェッリという量子物理学者の『世界は関係でできている』という本が西欧でベストセラーになり、日本でも翻訳されて話題になっているのですが、その本の始めに、オブザーバブル(観察できる)ものだけが事実であり、真実としか思えないことはいくつもある、そのことを明らかにしたのは、1925年、23歳の若きハイゼンベルクであった、ということが書かれています。
クーンのパラダイムチェンジは、17世紀に始まった科学の拠って立つ、そして目標である絶対原理でなく、相対原理なのだということです。言い換えると、科学にゴールはなく、ずぅーっと続く終わりなき営みだということです。もう少し説明します。世界は神の定めた巻物が少しずつ巻き広げられてゆくのだという見方があります。人間にとっては新しい事柄が展開してゆくのですが、本当のところ、何一つ新しいことは起こらないのです。これが絶対の世界です。世界の始まりと終わりがあり、全てのことに始まりと終わりがあり、終わりは全ての完成なのです。巻きほどけることをエボルーションと言い、進化を意味します。種が進化して人が生まれたという言い方をします。人は何から進化したのでしょう。サルからと言ったのが19世紀後半のダーウインの進化論です。その『種の起源』という本は明治時代、日本ですぐ訳されたのですが、日本ではその内容について社会問題にはなりませんでした。サルから人になったなんて、とんでもないことだという反応がなかったということです。
欧米、特にアメリカでは違います。21世紀になってもアメリカでダーウインの進化論をきちんと認める人は15%くらい、まあまあしょうがないという人が25%くらい、認めないという人は60%くらいです。神と人と自然ははっきり分かれていて、人は神が世界を創造するにあたって、最後に造った〈神の似姿〉なのです。サルはあくまでも自然界に属するのです。