返信45:決める(最首悟、2022/3/13)

序列をこえた社会に向けて

〈別にぃ〉という言い方はいごろからでしょうか。〈にぃ〉は語尾上げします。語尾上げも相手に承認を求めるニュアンスをはじめとして、複雑な言い合いをもっていますが、〈別にぃ〉も語尾上げすることで、よけい意味深長になっています。子どもたちが使うようになったのもいつごろからでしょう。

母親に何食べたいのと聞かれて、〈別にぃ〉と答える。食べたくないのではありません。迷っているのでもないのです。親の懐具合いを承知していて、高いものはまず除けておいて、ラーメンにチャーハンを食べたい、餃子も欲しいなと思う。だけど二つも頼めなし、どれにしようか、ラーメンか、チャーハンか、決められない。そして親なんだから、子どもの好きなものくらい察してくれよとも思う。あれやこれやで仏頂面で〈別にぃ〉というのです。

大人だって〈あれもこれも〉食べたいので、半チャーハンはできないのかというような注文が重なって、ラーメン・半チャーハン定食などというメニューが定番化します。欲張りといえば、お子様ランチがあります。一揃いそろっていて、大人になっての身からはキラキラ輝いているのですが、子どもとしてはじきに卒業して大人と同じものを食べたくなります。〈別にぃ〉はそういう時期に入った子どもの表現ですが、大人と共有する一筋縄ではいかない子どもの心情をよく表していると思います。すでにものごとを決めることのむずかしさをわかってきているのです。

忖度や空気を読むは、ちょっと脇に置いて、私たちの〈あれもこれも〉を考えると、欲張りのほかに、決めることの困難、躊躇が込められていることがわかります。どうして決められないのか。どうして選択できないのか。それは私なる者の根拠がはっきりしていないからだと言えます。自信がないのです。というか、これしかないという決まり感が出てこないのです。どうして選んだのかという問いに、何々と答える、その答えにまたどうしてと突っ込まれる、三回目くらいには言葉に詰まってお手上げです。

それで、決断するという抜き差しならないことになると、もう普通の状態ではないのです。戦争を始めるとか、人を殺すという場合、かぁーっとなって判断停止になる、あるいはお祭り騒ぎで気分が高揚する、あるいはヤクに頼って我を忘れる、というような状態にならないと無理です。日頃おとなしい人がそういう状態になることを司馬遼太郎は、日本人の酩酊気質と名付けました。

子どもにもどると、アメリカの医師の述懐に、自分は〈なぜなぜ坊や〉だったというのがあります。お母さんが付き合うのですが、最後には〈That’s that!〉と言います。訳すとすれば、「神様の思し召しよ」になるでしょうか。日本でもそう言うお母さんはいるでしょうが、まあ、〈しょうがないでしょ、そうなってんだから〉のほうが普通かもしれません。わたしもなぜなぜ坊主の気(け)はあったのですが、聞いても答えはないとか、迷惑をかけちゃいけないとかで、問いを飲み込んでいました。多分みんなもそうなので、ここにも人に迷惑をかけない、遠慮するという日本人の心性が育っているのかもしれません。子どもの〈別にぃ〉にも、すでにこの心性が育っているいるのが見て取れます。

ただ、自分の言ったこと、したことの原因、あるいはものごと一般の原因追及については、大きくは世界観が問題になってきます。宇宙と重ね合わせた世界とその始まりを、どう見ているということですが、始まりには何もないと思うか、混沌としていると思うか、そして何もない無だとしたら、世界はどのように始まったのか、あるいはどのように創られたのかが問題になります。また出現したにしても創られたにしても、その理由はあるのかないのかが問題になります。

世界は始まったのか、始められたのか。科学ではビッグバン説がが有力で、私たちもなんだかわからないけれど、そうかなあと思ったりしています。ただ説明を聞いてもわかったとは言えません。1秒のマイナス1乗というと0.1秒です。で、宇宙の始まりのマイナス36乗秒後からマイナス34乗後の間にビッグバンが起こったという仮説です。シャンパンの泡1粒が、光速より速く一瞬のうちに太陽系以上の大きさになるという説明があります。想像力が追っつきません。ですが、宇宙の始まりからマイナス36乗秒後まで、とにかく宇宙は始まっているのだから、そのあいだ、宇宙はどうしているんだろうという疑問がわきます。でも、その疑問には、今の科学の能力では答えられないそうです。となると想像の出番です。

宇宙・世界はおのずからしかり、〈なるようになっていくのだ〉が一つ、いや〈神が創られたのだ〉が一つ。後者には神はその後どうされているのだろう、今人間世界のことをどう見ておられるのだろう、という問いがついてまわります。