返信46:わかる(最首悟、2022/4/13)

序列をこえた社会に向けて

わかるは分かると書きますが、なんだかもののごとがおのずと分かれたみたいです。あの人とはわかれました、と言うときは、別れましたと書きます。一つの物が二つに分かれるとは、自然現象について言われます。細胞が二つになる。細胞分裂と言います。私たちの体は卵に精子が入って程なく二つに割れ、それぞれが割れて4つになり、というように増えてゆきます。一つの細胞がくびれて二つになるのですが、その機作は複雑です。生物では機械での、分解したり組み立てたり渡したりする機能やメカニズムを機作と言います。

ただ、誰かが、あるいは何かが作業している、分けているとは言えないので、自発の分かれるとかくびれるとかいう言い方をするのです。「わかった!」という言い方はどうでしょうか。突然わかったりするのです。夢の中でわかったりもするので、どうしてわかったのか、とっさにはわかりません。紀元前10年位前に死んだアルキメデスの「ユリイカ(わかった)!」は有名です。お風呂に入っているときに、浮力の原理を思い付いてお風呂から飛び出し、街なかを裸で「ユリイカ!」と叫びながら走ったというのです。この場合はお風呂の水かさが増えたということがヒントになっています。〈わかる〉は記憶や理屈や経験が組み合わさり、〈ひらめく〉という感激や満足の念が起こります。

つまり、〈分からない〉という思いは、充たされない、気になる、落ち着かない、済まない、などという気持ちを伴っています。そして〈分かる〉と落着き、安らかになります。そうすると、ここで、二つの思いが湧いてきます。一つは、なぜ分からないのか、一つ一つ段階を踏んで整理していくと、そういう仕方で最終的な分からないという〈分からない〉に到達できるかということです。二つ目は、その最後の〈分からない〉の答えはあるのか、ということです。

そんなことに付き合うひまはない、とわたしも思うのですが、意外にも決着はついています。最終的にという区切りがいけないのです。最終的かどうか分からない。それで最後の〈分からない〉に対する答えはあるかという問いは意味がなくなってしまうのです。分からないということに留まるしかありません。そのことに納得すると、物事は〈なりゆく〉のだ、ということになります。言い換えると、物事が生じたり変化したりすることの理由は大元ではわからないので、そういう事象は〈始まった〉のであり、そして次々と〈なりゆく〉のです。

遡及するという言い方があります。さかのぼってゆく、あるいは下に降りてゆくのです。源泉が見つかり、底に行き当たります。ところが源も底もなく、不可知の霧が立ち込めているばかり。さて、引き返すか、立ち止まるか、入ってしまうか。「引き返す」は論理学や数学や自然科学のあり方です。論理学や数学は器を定めて、その枠の中で考えてゆきます。その方法を演繹と言います。自然科学は同じようなものを集めて共通の性質を定めてゆきます。このような方法を帰納法と言います。卵は丸いと思っていますが、ほんとうにそうか、それで、1000個くらい集めて、みんな丸かった、だから卵は丸いと結論するのが帰納法です。でも1001個目が三角だったら、卵は丸いという性質は破棄されます。それで科学には終わりがないと言われるのです。

第二の「立ち止まる」ですが、じっと底なしを見続けるというか、説明のつかない体験(神秘体験)をするというか、そういう人に17世紀前半のドイツの靴職人のベーメという人がいます。底なしのなかに意思を見て、いや底なしそのものが意思で、その意思が底を造り出す、いわば無底の底です。それをベーメは見たのです。意思とは無底の底である。底というとなんだか単純のように思えるのですが、意思というと途端に複雑の極みになって、その単純さと複雑の極みが結びつくのをベーメは(心)眼で視たのです。常人には無理です。

最後の「入ってしまう」のは、たやすいというか常人のふるまいです。ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけでいい、易行といいますが、普通の人ができる信心です。そのような易行の一つとして、素直に〈分からない〉を認めてしまうのです。どうせ分からないじゃなく、〈分かりたい〉遊びのあがりみたいな感じです。〈分かりたい〉と夢中になって取り組むけれど、上りは〈分からない〉に決まっているようなゲームです。

実はわたしは遅まきながら「入ってしまう」の一人です。「不可知の霧」の中に居るものとして、58歳のときに少し大げさですが、「問学」宣言を出しました。問う学問です。いろいろな結論に距離を置きます。事実であるかのように飛びつかないということです。〈IQ20以下は人間でない〉も、そういう結論の一つです。