前回は「わかる」についてでしたが、実際に分ける行為があって、その分類の意味や分類の仕方を「わかる」というのだと言われます。とすると、「分ける」という能動的な行為の結果を「分かる」と言い、それが「解る」とか「判る」という意識の働きと密接不可分だということから、「わかる」を「分かる」とも書く、というようなことが想像されます。ちょっとゴチャゴチャしましたが、おのずと分かれたかのような印象を与える「分かる」という言い方はなんだか不思議だと言いたいのです。
「決まる」も人為を越えて決まったかのようです。「決めた」は、私が、誰かかが、或いは集団で決めたのです。例えば三色の白・赤・黒の球があるとして、それを同じ色に分けようと決めて、その作業が終わったとき、色分けが決まったのです。というとなんだかおかしい気します。三色に分けようと決めたときに色分けは終わった、つまり決まったのです。「決める」と「決まる」は同時で、しかも決めなければ決まりません。となると、同時ではあるけれど前後関係があると言わねばなりません。「決めた」から「決まる」のであって、「決まる」から「決める」のではないのです。
じゃあ、決めれば決まるのか。あたり前だ、決めれば決まるに決まっている、と思うのですが、さにあらずなのです。
1mのひもを半分に切るということを考えます。2本のひもの長さは同じであるとして
それぞれの両端に名前をつけます。1本目の一端に0cm、2本目の一端に1mと名付けます。すると残っているのは切った両端です。その一つの端は50㎝と名付けられます。残った端は何と名付ければいいでしょうか。50㎝とは名付けられません。違う両端に同じ名前は付けられないからです。50㎝未満ではどうでしょうか。正解です。でもなんだか曖昧なので数字を使って名付けられないでしょうか。
答えは名付けられない、です。1本の線を半分に切るとその両端は、50㎝未満と50㎝、あるいは50㎝と50㎝以上です。両方とも数字で表すことはできません。つまり切り口の両端のどちらか一方は数字で表せない、ということです。決めた、けれど決まらないのです。どうしてこんなことが起きるのでしょうか。
数字はデジタルで、隣り合う数字の間に隙間があります。つまり数字が1,2,3とならんでいるとして、数字を点で表すと、・・・となって点と点の間に隙間があるということになります。1.9と2.0としても隙間は小さくなりますが、やはりあるのです。ところがひもや線は連続で隙間がありません。それで1mのひもをちょうど50㎝のところで切ると〈49.9…と50㎝〉か〈50㎝と50.0…1㎝〉になります。〈…〉は前者では9、後者では0がいくらでも続きますよという記号をです。つまり数字と数字の隙間はどんどん小さくなりますが、どんなに小さくなっても隙間はあるのです。それで50㎝で切ってできた両端は〈50㎝に近い49.99…㎝と隙間〉と〈50㎝〉というように表されます。パース(1939~1914)はそのような隙間を、切った断面から無数の数字が次々に飛び出してる、というように表現しました。パースはアメリカ最大の論理哲学者・自然科学者と言われますが、500編にのぼる遺稿がハーバード大にあるそうです。
〈決まる〉、けれども〈決まらない〉の例としてはあまりふさわしくなかったと思いますが、〈決めた〉、そして〈決まった〉からには〈実行する〉とは限らないということを言いたかったのです。
有言実行という言葉があります。そして不言実行もあります。有言とは独り言でなく、ほかの人にも聞こえるように、わかるように言うことです。公言とも言います。そして何
かすることを公言すると、そのことは自分の手をはなれて決まったことになって自分に向かってきます。〈決めた〉といったよな、というような自分に向かっての駄目押しのようです。〈決まる〉とはブーメランのように自分に返ってくる〈うながし〉でもあります。もう後には引けないのです。
戦争をするとか、人を殺すというような〈大ごと〉の場合、この駄目押し、後押し、促しは、必要で大事なことです。これが神の声としてやってきたときは、有無を言わさず〈決まる〉が〈決まった〉になります。あり得ないことではありません。もちろん神の声を聴いたという嘘も含めてあり得ることです。
でも、そこで〈待った〉という声が響くこともあるのです。どこからかわかりません。自分の内心、奥底、あるいは無意識の領野、あるいは本能、いつ組み込まれたのかわからない鉄則のようなものなのかも知れません。あるいは私たちが今生きている原動力の〈いのち〉から発せられたのかもしれません。一言でいうと、良心ということになります。