返信48:割り切れない(最首悟、2022/6/13)

序列をこえた社会に向けて

分かる、決めるをめぐって少し書きましたが、関連する表現に〈割り切れない〉があります。決着がつかず、すっきりしない気分を思います。円周率πは割り切れない値です。ギリシア時代には円を完全とする考えがありましたが、その思いを私たちは円満と言い表しています。何も欠けることがない、そのことを数字で表そうとしても無理だということがπという記号に込められています。完全とか円満は割り切れないのです。

どっちかに決めることを二者択一と言います。二者択一を迫られると言うようになにか追い込まれた感じです。あれやこれや考えても決められない、でもなにか言わなくてはいけない、そういうときが多々あります。それでしょうがない、お茶を濁すということになります。どっちに決めたのかわからないような曖昧な言い方をします。割り切れないということを何とか表現しようとするのです。

白か黒かはっきりさせるという場合、事態は灰色と言っていいでしょう。灰色は黒と白を混ぜます。黒に白をほんの少し混ぜた場合、あまり変化は起きません。でも逆に白に黒をほんのちょっと混ぜると、明らかに灰色になります。つまりちょっとでも疑いがあるとやったに違いないと思われる、それで、自分は清廉潔白、無実であることを証明することを強いられる。黙っていれば黒にされてしまいます。でも自分が灰色でないことを証明することは場合によってはむずかしいのです。

ほんのちょっと混じった黒を自分では自覚できないことがあるからです。白か黒かはっきりさせるという事態は法にふれる犯罪を巡って起こるのが普通ですが、日常的には人を差別する、あるいはいじめるという場合に多く起こることです。差別したつもりはない、いじめたつもりはないときっぱり言えるのですが、された方は黒だとしか思えないのです。

灰色と言っても黒と白の間でこれが灰色と決められない、ということを言おうとして話が少しずれました。灰色は感情表現としては、曖昧、不安、控えめ、憂鬱、慎重、陰気、思い出、寂しさなどが挙げられていますが、色としては白と黒に限らず、黄色をはじめいろいろな色が加わって、桜鼠とか利休鼠、深川鼠など多彩でです。

割り切れないとは、はっきり輪郭が決められないことです。月の暈はにじんでいます。雲の縁もはっきりさせられません。横山大観は朦朧体という画風を確立しましたが、その背後には水墨画という伝統が広がっています。灰色と感情のつながりに、控え目とか陰気とか寂しさがありましたが、陰と陽で言えば陰の感情です。戦後、wetとdryという言葉が流行りました。wetは戦前、dryは戦後、アプレゲール(戦後派)を指します。歌で言えば、歌謡曲、演歌に対して、ジャズやポップ、ロックなどでしょう。

ドライは自立志向をバックにしながら、〈情けは人の為ならず〉の解釈が、情けをかけるのはその人の為にならないになるという風な傾向を推し進めてゆきます。本来の意味は、情けをかけるのはその人の為というよりは自分の為なのだということです。情けをかけるということ自体がウエットなのだという思いが背景にあります。総じて人との関係を切ることがドライなのだ、という風潮が若者を中心にして広がったのは否めません。

でも、人との関係を絶ち切って人は生きてゆけるのかという思いもまた私たちは断ち切れません。私たちの身に沁み込んでいるのは〈移ろい〉です。世の中は常に変わりゆく、無常です。それゆえに人との関係は変わらずに温めてゆこうという思いを情と受け止めます。私たちは四季が変わってゆく風土の中で、有情無常の世を渡っているのです。有情をウエットとすれば、さばさばするドライよりも、やはり私たちはウエットの方に傾いていると言わざるを得ません。哲学者の和辻哲郎は湿潤の日本を生の横溢と呼び、乾燥の砂漠を死との対峙としました。

横はあまりいい意味ではなく、横死とか横暴とか、横着とか、それで横溢は抑え込んでもあふれ出してしまう、手が付けられない旺盛なサマなのですが、なにか物を言わなければならないとき、あれもこれもで整理がつかない状態、あるいは逆にそのことが災いして何も思い浮かばない状態になって、ウーとかアーしか言えない、すると、いい加減はっきりしなさいよ、煮え切らないんだからと言われてしまいます。

煮え切らないのも割り切れないの内です。ノーと言えない日本人と言われるのもそうです。ノーと割り切るといろいろと差し障りが生じます。だからといってイエスというわけにゆきません。すると曖昧な微笑でごまかす日本人と言われてしまいます。いかのぼりきのふの空のあり処(蕪村)。情況はいつも絶えず変わっているのです。