思い込んだら命がけ。灰田勝彦の1940年に爆発的な人気を得た歌謡曲「燦めく星座」の一節です。日本が太平洋戦争に踏み切ったのが翌年の1941年ですから、思いを決したら命を懸けてやり切るという思いとこの歌詞が重なって人々の心をとらえたのだと思います。この歌は〈男純情の〉で始まり、〈思い込んだら命がけ〉の歌詞は〈男のこころ〉と続きます。男に限らず女の人でも眦(まなじり)を決した人は多かったと思います。
作家の高見順の「敗戦日記」が昭和40年、文芸春秋新社から出ています。本のケースの表紙は裏表とも昭和20年8月15日の朝日新聞です。表紙は新聞の一面で、右からから左へ大活字で〈戦争終結の大詔渙発さる〉とあります。そして詔書全文が載っています。号外ではないので不思議な感じです。もしかしたら午後発行されたのでしょうか。ネットで調べたところ、この日の新聞は天皇の12時からの放送に合わせて午後に印刷、配達されたそうです。
さて、高見順の8月15日の日記ですが、「詔書の御朗読。やはり戦争の終結であった。」のあとに「遂に負けたのだ。戦いに破れたのだ。」とあります。〈終わった〉と言わずに〈負けた〉と言っています。その前の個所に「それとも、――或はその逆か。敵機来襲が變だった。休戦ならもう来ないだろうに……。」。単なる終結の〈お言葉〉ではないのではないかという疑念と覚悟が漂っているようです。そしてそれに続く箇所が異様です。
――「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」
と妻が言った。私もその気持だった。
なんだか鳥肌が立つようです。私は国民学校3年生でした。正座をして聞きました。普通の口調でなく、何を言っているのか殆どわかりませんでしたが、戦争が終わったらしいことは母親の様子で感じ他のだと思います。父親は居ません。東京に居て、私たちは家族で疎開していたのです。母親は号泣したり喜んだりしませんでした。ラジオを聞いた後のその日のその後の暮らしぶりも記憶にありません。たぶん大きな変化はなかったのだと思います。
高見順の奥さんの言葉とそれに賛同する高見順の思いに衝撃を受けたのは、一億総玉砕があり得たかもしれないという思いと、日本国消滅という思い込みが一瞬にしてなくなったのだという思いが重さなったからだと思います。また高見順が東大出身のインテリ作家だということも加わっています。インテリとか庶民の区別なしに人間は洗脳されるということか、いやインテリとしては、挙国一致の不敗の神国日本は消滅するしかないと考えたのか、天皇の一言によって、そういう道筋になったのかもしれないと思うと、やはり身震いしそうです。
戦艦武蔵の生き残りの少年農民兵士の渡辺清は、『砕かれた神――ある復員兵の手記』の中で、待ったなしの稲の刈り入れなどの農作業をしながら〈一億総懺悔〉が言われ出したことについて、やり場のない鬱屈を記しています。誰も責任を取るものがいない。自分が責任を取るほかないと、少年兵志願のころから戦艦武蔵の最後、そして「天皇裕仁氏への公開状」などを書いていきます。
退却を転進と言い換えたり、敗戦を終戦とするのは、たしかに姑息なごまかしです。でも敗戦77年の現在という時点で考えてみると、戦争は〈終わった〉という思いはたしかな実感であり、また私たち日本人の変わらぬ考え方、ものの見方ではないのかと思われます。責任についても、意図的なごまかしは別にして、〈責任はとれない〉のだと思います。なにかしてしまったこに対して責任はあるのです。でも誰の責任かとなると困ってしまうのです。
〈責任はあるが責任はとれない〉が日本人の大元の、そして変わらない考えです。どうしてそうなのか。それはものことが〈なりゆく〉からです。森羅万象、この世界の、この宇宙のありとあらゆるものことが関係しあって、ひとつのものことが生まれる。そのあり様を〈なりゆく〉と言います。このような考え方をインドで生まれた東洋思想では〈縁〉と言います。ご縁ですねとか、縁もゆかりもないと私たちは言ったり思ったりします。
つい「茶碗がわれた」と言ってしまいます。とっさに「私が茶碗を割った」とは言いません。責任回避、責任逃れなのかというと、そうとも言えません。責任をとれと迫られて、たとえ弁償したとしても、なじんだ茶碗、愛着や使い手の人生がこもっているような茶碗はかえって来ないのです。また、私が割ったと言ってもわざと割ったのでなく、いろんな事情が絡まって、茶碗は私の手を離れて落下したのです。