人間に、想像力、そして創造力はどのようにして備わったのでしょうか。動物や植物には信じられないような超能力があることが知られています。ライアル・ワトソンは『超自然』という本で、実験で確かめられた、そのような超能力の例をいろいろと紹介しています。人間にそのような超能力が、まったく受け継がれていないとは言えません。そして、その継承のあり方の一つが想像力、あるいは創造力だと考える可能性はあるかもしれません。
夢を見ることもそのような能力の一種かもしれません。夢を見ることは記憶の整理に関係しているのではないかという説があります。記憶というのがまた難題ですが、歳をとると忘れることが多くなることから記憶も能力であるこを改めて思います。自閉症と言われる人たちのなかに、すさまじいとしか言いようのない記憶力の持ち主がいます。記憶がどのように蓄えられているか、現在のところわかっていません。
娘の星子は46歳になりましたが、8歳のときに失明し、言葉も失われました。その娘が眠っているときに、ときどきウフフと笑います。どんな夢を見ているんだろう、と親は互いに尋ね合いますが、なんだか幸せそうです。もう一つ、朝どきが多いのですが、〈あ〉と〈が〉の間のような声を出しながら、笑うときがあります。眠っているときのウフフとは明らかに違います。可笑しくて可笑しくて、といった感じです。
意識や心の表れや作用について、わたし達はほとんどのことが判っていないのだと思います。神秘という言い方をしますが、医療では、治癒してしまうことが繰り返し起こると、命にかかわることですから、捨ててはおけません。その効果に名前をつけて取り組むことになります。その一つにプラセボ効果というのがあります。プラセボは偽薬という意味でプラシーボとも言います。
プラセボの代表的な例は、砂糖であれ片栗粉であれ、薬包紙に包んで、お医者さんがこの薬は効きますからと言われて、服用すると劇的に効く、というものです。お医者さんの顔を見るだけで、症状が軽くなるのもプラセボと言われます。わたしも子どもの頃、経験しました。わたしは小児喘息で、小学五年生のとき、連続して学校を3年休んだのですが、その間のことです。一人で東大病院にゆくのですが、その最中にも発作が起きることがあります。そういう状態で、お医者さんの顔を見ると喘息が楽になるのです。
その先生は若くて、まだインターンではなかったかと思われますが、その後診療所を開かれた後も、通うことはできませんでしたが、時々なんとかして行くと、お顔を見るだけで喘息が楽になったのを覚えています。喘息が軽快したのは、それから5年後くらいに出たプレドニゾロンという副腎皮質ホルモン剤でした。それでも治ったわけでなく、30歳を過ぎても、急に発作を起こして、地下鉄の階段を30分近くかけて上ったことがありました。
ハワード・ブローディの『プラシーボの治癒力』(伊藤はるみ訳、日本教文社、2004)という本があります。そのなかで著者は、「神秘的なものとしてのプラシーボ反応を考える」と言っています。心とからだの複雑なつながりを考えると、畏怖と驚嘆の気持ちを抱き続けることが絶対に必要だから、と言います。プラシーボ反応を、予測可能な、お金を入れると品物が出てくるような自動販売機にするような試みは無意味だと著者は言います。
病いは気からといいます。主として日頃の気の持ちようで、病気にならないという意味です。いま病気と書きましたが、気が病むのです。病いになれば気もふさぐのですが、気がふさぐことで身体が病むということのほうに力点がかっているのです。気と心はどう違のでしょうか。少なくとも病気とは言っても病心とは言いません。気は根源的な生命力と説明されることがあります。それに対して心は気の状態の意識への現れといえます。私たちが日ごろ使っている気のつく言葉は本当に多いと思います。
日本では特に気を遣うことが求められます。その場の空気を読むことです。それで気を遣うことにほとほと疲れてしまうことがあります。気が萎えてしまうのです。子どもはいいなあとため息が出てしまいます。そして一方で子どもは未熟だからと思います。大人は深謀遠慮、その場の空気を察して、その場にふさわしい言動をします。日本人のアメリカ好きの一つにアメリカ人のフランクさ、率直さがあげられることがあります。大統領が日本の総理大臣をすぐ友達呼ばわりをする、外交辞令じゃないかと思いながら、悪い気はしないのです。もちろん日本でも率直さ、開けっぴろげは推奨されるのですが、現実にはそうはいきません。次回、プラセボについて、続けます。