プラセボ効果やホメオパシーなどの療法は、病から解放されたいという願いと、人の言うことを信じるということに密接に関わっていると思われます。催眠術やマインドコントロールも信じる心がなければ成立しないのでしょう。心はその大方は意識だとされています。意識は生物の進化の過程で発生したという見方が有力ですが、心となると、生物以外のものごとにも宿っているようで、そうすると、魂との関連が出てきます。
世界は〈いのち〉から始まったとします。世界は無から、あるいは混沌から始まったといわれますが、生物は発生したと言えますが〈いのち〉は発生したと言えず、〈いのち〉の根拠関係は知られないと言われるので、そうすると、世界は〈いのち〉から始まったと言える余地があります。魂とか心もその始まりはわからないので、〈いのち〉と共にと言えるだろうかと思います。
パソコンのグーグルドライブの、あのおなじみの奇妙な三角形は、量子力学には計算不能のところがあると主張する、天才数学者と言われるペンローズの作品です。量子力学は素粒子を研究する物理学ですが、素粒子は点みたいな存在です。点を打つと言えば目に見える点のことです。でも点は大きさも重さもありません。点をつなげると線になるというのですが、考えてみると不思議です。量子論というのは不思議だらけです。計算できないところがあるいうのは、数学や物理学をはみ出すことを意味しています。そうすると何でもありという気がしてきます。
20世紀の始まりまでは、ものごとは〈あれかこれか〉の二者択一を決める、が自然科学だったのです。それが光は波であり粒であるということ打ち出されました。言い出したのはアインシュタインです。「いままではあれかこれかだったが、これからはあれもこれもである」。これは量子力学部門でのノーベル賞受賞者の記念講演で言われた言葉です。白であり黒であると言われても、私たちはどんな状態を思い描いたらいいのか、さっぱりわかりません。それで急に飛躍して何を言ってもいいのだなという気になります。
ペンローズは、何を言ってもいいというだけでなく、それなりの理由をつけて、世界の始まりは意識だと言います。意識は心の要素だとすれば、世界は心から始まったと言ってもいいのではないか、という気がします。石の心などと言うと、人間の想像にすぎないといわれそうですが、石が泣くという伝説は日本各地にあります。
何のことを言っているやら、と自分でも思いますが、世界が〈いのち〉から始まったとすると、心は〈いのち〉と共に、あるいは〈いのち〉に先んじて始まったのではないか、と想像します。そして心の一番根底に〈信頼〉があるのではないかと思うのです。〈信頼〉の念は私たち人間に根付いています。そして、根付いているのは人間だけじゃないだろうと考えるのです。
そうであるなら、逆に人間すべてに、どんな悪人だろうと、信ずる心が備わっているはずだと思うのです。信じると信頼は違うではないかと思われますが、悪を信じる、悪に頼るという信頼はないのではないか。〈いのち〉と心は密接に関わっていて、〈いのち〉は悪を宿していません。そして人間だけが不合理な悪がはびこる社会を持っています。欲のぶつかり合いと策謀が悪を生み出します。権力と巨大な悪は結びついているかのようですが、やむを得ない悪は普通の人でも犯します。
大岡裁きは、悪を犯した事情を斟酌します。そのような裁きを〈原す〉というのだそうです。〈ゆるす〉と読みます。〈聴す〉も〈ゆるす〉と読むのだそうです。心を開いて相手の言うこと聞くと言えばいいでしょうか。いずれにしても信頼の念が働いています。法制度にも情状酌量があります。死刑は情状酌量の余地なしとした判断です。
ほんとうにそうでしょうか。どんなに凶悪な犯罪であっても、情状はあります。無いと思われたにしても、時間が経てば新しい観点が見つかるかも知れません。死刑は取り返しのつかない判断です。それゆえ死刑制度を保持しているのは、私たちがよく知っている国は、現在、アメリカと中国と日本のみになっています。この間、死刑囚で認知症になった老人のドキュメンタリーを観ました。自分がどんな事をしたのか、なぜ刑務所にいるかのか、分からないのです。
悪人正機という言葉があります。どんな極悪人でも悪人こそ救われるという教えです。救われるとは何か、私はいまいち納得していないのですが、悪人正機とは、人は信頼の念を持っている、そして誰にも悪への信頼はないのだ、という意味だと思っています。意識について、大分ずれたようです。この項続けます。