返信49で問学について書きました。終わりに、問学について説明を続けるとしたのですが、そのあと、少し別の話題に移りましたので、今回は問学についての話を続けます。
お亡くなりになった春原憲一郎さんが15人と対談した『わからないことは希望なのだ』(アルク、2010)という本があります。15人目の対談者は私でした。あとがきにあたる項の題名を、春原さんは「問学のすすめ」とされました。対談を終えての文で、春原さんは「横浜ホテルニューグランドの中庭には心地よい浜風が吹いていた」と記しました。ほんとうにそうで、今でもその時の気持ちのよさが蘇ってくるようです。対談のなかで問学について、私は次のように言っています。
希望は、生きがいをもちたいというところにあり、そこから自己を律したり、社会を律したりするのだけれど、生きがいはなかなか探せない、わからないのです。この「わからない」ということの希望を、ぼくは問う学と書いて「問学」と言っています。これは、どんなことを誰が言っても、「どうしてなのよ」って万人が、子どもみたいに問えばいいということです。答えはそう簡単に出ないし、わからなさをもち続けること、結局はどんなことしてもわからなさが残るのだということ、それを自覚的にしていくのが学問のあり方なのだ、ということです。
そして問いに包まれるという意味で「霧が光る」という表現を得たときの話を続いてしました。
霧は「五里霧中」というような不安の象徴なんだけど、その霧の一粒一粒が発光しているような「霧が光る」状態が、包摂としてのクエスチョンというか、問いに包まれた世界です。ぼくの好きなことばで、昭和11年ころの中原中也の死ぬ直前くらいの作品に「目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた」というのがあるんですが、そういう、「目的はないけど希望はある」みたいな世界なんですよ。
それは何だろうと問うことを〈問い〉という一言で表すと、問いは、乳白色の霧の中で、ところどころ光るような霧の一粒みたいで、なにか希望をはらんでいるようだと思われるのです。問いが全部なくなった世界を想像すると、なんだか明るくはないような感じがします。問うことができる、わからないことがいっぱいある世界は明るいのではないかと思うのです。常識とは反対のことを言っているようですが、重度障害の娘、星子と暮らすうちに世界の見方が変わってきたという実感があります。
この世、その世、あの世と言います、あの世は死後の世界です。その世とは、いろいろ考えがあるでしょうが、この世とはちがう、もう一つの世界です。水俣病の発症の地の水俣が位置する不知火海沿岸の風土について、それはもう沢山の作品を生み出した、石牟礼道子さんは、水俣病に罹った人たちの世界を、もう一つの〈その世〉と言い表しました。〈水俣病になってよかった〉という、不治の病いの水俣病罹災者の言葉が、生きる根本となっているような世界です。〈のさり〉に感謝して生きる世界です。
〈のさり〉とは、私はちゃんとわかっているとは言えないのですが、海の恵み、そして海とつながっている天からの授けもののことです。この世での石牟礼さんの悲痛の極致のような表現に「祈るべき天と思えど天の病む」があります。海と天はつながっているのです。水俣病は不治の病いです。絶えず頭痛に悩まされたり、足がつったりする人たちがいます。私はかつて水俣やその北の葦北、そして天草の御所浦島に何度か通いました。
その御所浦島の旅館の女将さんに話を聞いたとき、女将さんが「いま震えが止まらないのです」と言いました。見たところ震えていません。水俣病の調査にあたった熊本大の医師団は、水俣病患者には芝居がかった大げさな身ぶりや虚言癖が多いとしました。御所浦の女将さんもその一人にされたのです。他人にはわからない、この震えは水俣病による心因性の症候の一つです。お金欲しさに漁民は嘘をつくと、大手の週刊誌も被害者たたきをしました。当然ながら魚を多食する漁民に水俣病の被害者が多く出たのです。
その世はあの世と違って、この世にはめ込まれた、国家や抑圧する権力がない世の中です。星子と三人暮らしの私たちの生活にも、ときおりと言うかしばしば訪れる、穏やかで平安な暮らしです。問学について、わからないという思いから出てくるもの、と言うお話になりました。わからないという世界には制約のない自由があります。問うことがない全能の神はさぞ退屈だろうと思ったりします。