湯堂という漁村の運命(1)

奇異な疑問のようだが、昭和31(1956)年から昭和35(1960)年にかけて、熊本県水俣市およびその周辺地域で発生した<水俣病>について、いったいなんと呼んだらよいかと考える。というのは、<打捨て水俣病>とか<かくれ水俣病>という名称があるからだ。

5年間で止んだとされる水俣病は、長くなることをいとわなければ、<漁民が隠しきれずに発見され、医学の権威のもとに行政と企業が短期に終結させた水俣病>というのかもしれない。その代表的な定義は、昭和43年9月発表の政府・厚生省の「水俣病に関する見解と今後の措置」にみられる。

この見解は、発症から12年目(原因がわかってから9年後)に、水俣病の原因を特定した悪名高い文書であるが、(一)水俣病の本態とその原因、(二)これまての経緯と今後の措置、にわかれ、(二)では水俣病被害の民事上の和解が成立していることが強調されている。

(一)を全文引用しよう。

水俣病の“公式”定義

----水俣病は、水俣湾産の魚介類を長期かつ大量に摂取したことによって起った中毒性中枢神経疾患である。その原因物質は、メチル水銀化合物であり、新日本窒素水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化含物が工場廃水に含まれて排出され、水俣湾内の魚介類を汚染し、その体内で濃縮されたメチル水銀化合物を保有する魚介類を地域住民が摂食することによって生じたものと認められる。水俣病患者の発生は昭和35年を最後として、終息しているが、これは、昭和32年に水俣湾産の魚介類の摂食が禁止された(*1)ことや、工場の廃水処理施設が昭和35年1月以降整備された(*2)ことによるものと考えられる。
なお、アセトアルデヒド酔酸設備の工程は本年より操業を停止した。(*3)(傍点引用者=原著、ここでは太字表記)

明白な二つのウソ

*1の「禁止」は明白な虚偽である。「禁止」には食品衛生法の第何条かの発動が必要であるが、原因物質が不明であるかぎり食品衛生法を通用することはできないと政府は拒み通した。その他の、漁獲禁止や廃水流出停止をもとめることができる諸法律も、ついに適用されることがなかったのてある。

明白なウソをつく政治的効用は何であったか、*3の言及の政治的計算とともに、にわかに測りがたい点がある。

すなわち、メチル水銀をつくり出していたアセトアルデヒド製造設備は、全国で7社8工場あったが、昭和43(1968)年5月18日のチッソ水俣工場の稼働停止に続き、水銀使用量でチッソの10倍(水銀問題特殊調査、経済企画庁、昭和42年)あった電気化学青海(おうみ)工場が5月30日に稼動停止となり、これを最後に全設備がスクラップ化された。つまり、使いつくしてお役ご免になった。その4カ月後に、政府は水俣病の原因を発表したのである。

また*2について、政府見解にある新日窒(昭和40年からチッソに名称変更)水俣工場の、昭和35年1月から運転しはじめた廃水処理施設(サイクレーター)は、実は、メチル水銀除去に何の効果もなかった。竣工式にチッソ本社社長は浄化水を飲んでみせ(後に水道水と判明)、その効果をアピ−ルしたが、昭和電工鹿瀬工場からの問い合せに対して、「浄化槽は社会的解決の手段として作られたもので、これは有機水銀の除去には何等役立たない」と回答した(新潟水俣病訴訟、被告<昭和電工>側証人、安藤信夫証言)。政府がこの事実を知らなかったはずはない。経済企画庁、厚生省、通産省、水産庁の四省庁の担当課長と研究者で構成する水俣病総合調査研究連絡協議会の第3回(昭和35年9月29日)の会議で、イニシャルEと書かれたメンバーは、「水銀を含む廃水はサイクレーターに入らず無関係だから、サイクレーター設置後、海中の水銀量が滅ったとはいえない」と発言している。チッソ水俣工場で、水銀を含む廃水が、完全循環処理によって海に流されなくなったのは昭和41年である。それまでメチル水銀は海に放出され続けた。

それ以前の“公式”認識

では政府見解が発表されるまでの公式水俣病はどのように叙述されるか。試みに書けば、おそらく次のようになるだろう。

「昭和31年、熊本県水俣市の南端の漁村に発生した奇病は、市内及び周辺農漁村に伝播し、伝染性疾患と疑われたが、昭和34年、最終的に魚介類に蓄積されたメチル水銀の経口摂取による中毒症(水俣病と名づける)であることが判明し、適切な措置を講じたため、昭和35年に終息をみることができた。なお、水俣病は昭和28年から発症していることがわかり、昭和35年までの患者数は87人(死者34人)であった。その後、同期間にさらに2人の発症が確認され、かつ22人の胎児性患者(胎盤を通してのメチル水銀摂取)の存在が知られ、最終的に患者数は121人(死者42人)となった。適切な措置の内容は、一、水俣湾産の魚介類を摂取しないように指導、二、水俣湾の漁撈の自主的禁止の指導、三、メチル水銀排出源らしい企業に対する廃水浄化装置の設置の指導てあり、いずれもよく遵守された。窮迫した患者家庭には、社会的責任の観点にたって同企業から見舞金が出され、患者側も万一、同企業が原因者であることが判明しても補償を求めないことを了承、和解が成立した。同企業は、水俣漁協ならびに周辺漁協に同様の趣旨で、漁業振興資金を支払った。残された課題は水俣病の医療研究であろう」

このような公式水俣病、すなわち<終った水俣病>のもとで、患者家庭や漁家は全く沈黙していた。

許せない昭和35年終熄説

水俣病幕引の引き金になったのは、熊本大神経内科徳臣晴比古らの昭和35年終熄説(昭和38年3月発表)である。事実といえば事実の発表にすぎなかった。昭和36年以降医院を訪れた人びとのなかに、水俣病患者がいなかった、あるいは医師からの水俣病患者発生の報告がなかった、という事実である。

表1を見てもらいたい。昭和45(1970)年7月現在の、水俣病多発部落(月ノ浦、湯堂、茂道)の水俣病患者の発症年別の患者数を示している。このなかで「昭和45年までに認定された患者」の項目の患者の実際の認定年は、昭和39〜45年にわたっているのである。すなわち、昭和36年から38年の三年間、新たに見出された患者はなかった。昭和36、7年当時、まだ胎児性水俣病の概念がなく、脳性小児マヒといわれていたころ、昭和35年に4人の発症をみたものの、昭和32、3年の両年は0人、昭和34年は1人、そして36年から0人というデータから、そのかぎりにおいて、水病俣は終ったと結論することは不自然といえない。しかし、その結論は、アッという間に無限定に拡大され、政治的に利用されることになった。昭和34年2月の食品衛生調査会の解散(水俣病原因は湾周辺の魚介類中のある種の有機水銀化合物によると答申して即日解散)から昭和43年の政府見解にいたる水俣病封殺作戦が、いつ、どこでだれによって立案されたかは、いずれ明らかにされなければならないことである。

表1:水俣病多発部落(月ノ浦、湯堂、茂道)の発症年別患者数(昭和45年7月現在)
28 29 30 31 32 33 34 35 36〜45
昭和35年までに認定された患者数 1 3 7 31 0 0 1 4 0 47
昭和45年までに認定された患者数 0 0 0 1 2 0 3 0 0 6
昭和37年に認定された胎児性患者数 0 0 1 5 4 1 0 0 0 11
合計数 1 3 8 37 6 1 4 4 0 64

(水俣病と認定された患者総数は全地域で121人、そのうち死者は46人、胎児性患者は23人である。胎児性水俣病は昭和37年に明らかになり、同年一括認定された。この表は、水俣病研究会編『水俣病に対する企業の責任』の患者名簿より作成したものである)

とにかく、水俣病は昭和35(1960)年に終った、あるいは終らなければならなかった。

再び湯堂へ

昭和31(1956)年から爆発的に発症して、数年間で止んでいったかのような<水俣病>は、地元の人びとにとって、苛烈な事態のはじまりだったのか、それともおわりだったのだろうか。それは、両方ともにいえることである。なぜそうであるのか、熊本県と鹿児鳥県の県境にある湯堂という小さな漁村を例にとって述べてみたい。国鉄水俣駅を降りると、国道3号線をへだててチッソ水俣工場が真正面にある。その3号線を南へ1.5五キロほど下ると、右手にフェリー着場が見え、水俣湾が開けてくる。道はそこのあたりから上り坂となり、ずっと1.7キロほど登りつめて行く。登るにつれて水俣湾を区切る恋路(こき)島のうしろから、天草の鳥々が浮びあがってくる。眺望絶佳というような景観である。登りきったところから海へ降りて行く右手の斜面と海ぎわに、150戸ほどの湯堂部落がある。

昭和20(1945)年の終戦時、湯堂は100戸ほどの集落だった。

終戦直後、まず猫がおかしい

この湯堂で生まれた大村トミエさん(昭和8年生まれ)は、この年、鹿児島県の出水高女に入った。ケンカも勉強も人に負けるのがきらいという気性のトミエさんは、水俣高女も合格した。高女に行けたのは、やはり家に余裕があったからである。なにしろ、戦時中に部落にただ一軒、トミエさんの家にジオがあった。戦時中にという時期が大事で、たとえば国鉄水俣駅の近くの山側に位置する侍部落の分限者の家には、柱時計はあったがラジオが入ったのは戦後のことてある。熊本県宇士郡の網田(おうだ)部落でも、ラジオは一軒にしかなかった(山中恒『子どもが<小国民>といわれたころ』)というから、ラジオは相当のステータス・シンボルだった。逆にいえばそれほど貧しかった(昭和16年、受信契約者数600万、月額受信料は昭和20年まで月額50銭)。

さて、トミエさんは昭和22(1947)年春に、地元の袋新制中学校3年生に編入となり、昭和23年に卒業、その年、親同士がいとこの、同じ村の漁家の青年と結婚した。トミエさんの記憶はこの年を境にして、その以前は鮮明で、以後はだんだんとボケ、年月が錯綜してくるようになる。ある時から以降記憶がぼけてくるのは、水俣病に共通している症状のように思われる。

そのしっかりした頃の記憶によれば、袋中学校へ通うころ、袋湾にいっぱい来ていたシビンドッグリが見えなくなったという。浮いている姿がシビンに似ている冬の渡り烏てある。たぶんアビであろうか。アメドリ(シロエリオオハム)もいなくなった。袋湾にイワシが入らなくなったのである。その前に猫がおかしくなっていた。前足だけで歩いたり、腰がぬけたり、ヨダレをたらし目が見えなくなった。「おまえとこのネコはまだ元気か」というのが挨拶になった。

終戦後、昭和21年はイワシも何も大漁で、(チッソ)会社行きの1カ月分を2日で揚げるといわれたぐらいてある。昭和18年にチッソ水俣工場に入った工員の日給が、昭和21年に3円52銭だった。これを目安にすると一日に4、50円の水揚げがあったことになる。チッソ水俣工場が爆撃を受け、アセトアルデヒドが昭和21年2月まで製造できなかったこと、男手がなく漁ができなかったこと、男たちが復員してきたことなどが大漁の原因に数えられる。アジが大量に獲れた。水俣湾内のカシ綱(磯建網)によるエビやカニ、クチゾコ(書ビラメ)漁も3年間好漁だった。鯛の一本釣りも目の下一尺ものが2、30匹という水揚げが可能だったのである。タコも豊富だった。

昭和24、5年、ヒトが狂う

昭和24年から25年にかけて、水俣湾で急に魚がとれなくなり出した。水俣湾のなかの湾である袋湾のイワシ地引網の不振に続いて、水俣湾の馬刀潟(まてがた)でカルワ(ヒラメ)、タコ、スズキなどが浮きはじめ、そのなかには手でつかめるようなものも出てくるようになった。海草は白味を帯び出し、海底をはなれて海面に浮き出すものが多くなってきた。

湯堂では、大村さんによれば、昭和23年から24年にかけて、水俣病様の激症で死亡した人が3人いたという。酒がなかったころで、密造酒が出まわり、メチル中毒が騒がれたこともあって、メチル中毒といわれたが、女の人もメチル中毒とはおかしいとささやかれた。当時、女の人は酒を呑むことはなかった。もっぱら男だけが呑んだのである。昨日仕事をしていた人が、今日は別人のようになってしまう。ラィオンが吼えるような咆声をあげた。夜は静かなので、その声がよけいに響いた。

猫と同じ症状であることがあさましく思え、年寄りたちは、バチが当ったのだと言っていたが、何のバチかはわからなかった。しかし、半家畜として人間に馴致されきらない猫に対して、人びとは<猫かわいがり>する一方で、「あの眼に油断せず、十分に心を許さなかった。・・・何かと言えば恨み憤り、復讐でも考えているのではないか」(柳田国男)と疑がっており、歯をむきだした興奮に、野性と魔性をみていたのである。ネコが狂い、ヒトが同じように狂うことには、肌に粟立つような恐怖があった。病気だとすれば、それは十分、血統(ちすじ)に値する病気だし、祟りだとすれば、一家に代をついで襲ってくるはずだった。どちらにしてもイデンである。イデンという言葉は、決して大きな声で発しられることはない。

昭和26年、ボラがとれない

戦後、湯堂はボラの飼付釣(かいつけつり)漁に力を入れはじめた。トミエさんの嫁ぎ先も、ボラ漁にとりくんでいた。6月から10月にかけて、トミエさんは朝3時に起きてボラに食べさせるソフトボールほどの大きさの麦ヌカ団子をつくった。ヌカ団子には小石を埋めこみ、ボラの通り道に撒く。この撒餌(まきえ)はずっと継続して行なうので、飼付けという。ボラが寄ってきたところで、撒餌と同じヌカ団子に鈎を何本か埋め込んだ餌で釣る。

ヌカは大きな釜で炊きあげ、蛹(有脂)粉を混ぜて熱いうちに握り固める。この作業は重労働だた。のちに飼付釣漁がだめになって、飼付けカゴ漁が主体になるにつれて、ヌカ団子の質を競うようになった。その質の工夫がたいへんだった。味噌を入れ、バター、肝油を入れ、高価な馬の油を混ぜ、、毒味をしてボラがよろこびそうな味を必死に求めることになる。餌代はどんどんかさんでいった。お互い秘伝をつくして、一匹でも多くという気持の表われだったが、その努力はボラが少なくなった事実によって強いられたがゆえに、悲哀の念がまといつくのを避けられなかった。

ボラ飼付釣漁は集団の共同漁である。みんなが一斉に餌を撒かなければならない。餌を撒きに行って、そして釣ってくる。水俣湾口の裸瀬(はだかせ)や茂道(もどう)山の柳崎(やなぎざき)から恋路島の針の目崎(めんず)を結ぶ線上に、ボラ釣り船がズラリと並んだ。町中の人たちや少し山に入った村の人たちは、その風景をみて、ボラカイの楽しみに思いをはせる。ボラカイとは、ボラを買って焼酎をのむ宴会のことである。そのために人びとは講のようにしてお金を積み立てていた。湯堂をはじめ月ノ浦、茂道で「漁民の生活の半分を支えるといわれた」(『水俣病に対する企業の責任』)、このボラ漁が、昭和26年夏から不漁続きになった。

トミエさんの結婚生活

トミエさんは、結婚後間もなく妊娠した。「でもどうしたことか9ヶ月で死産で生まれる。あくる年2回目の妊娠、これも5ケ月で早産。そんなことで23年から45年までの間に、連続12回もお産のしくじりをして今も子どもがありません。どこの病院に行っても不思議がる。どこといって原因が分らない。その後主人が病気で寝こみ、ボラもイワシもめっきり獲れなくなっていたので実家からの援助もへって、私たちは貧困のどん底におちた」(「死ぬ前に一ケ月でいいから平凡な日々を」『不知火』終刊号、1979年)

昭和30(1955年)、夫の病死、トミエさんは実家に帰るが、病い知らずの父親が倒れ、トミエさん自身も耐えがたい頭痛と神経痛に悩まされる。昭和33年、トミエさんは佐賀県の鳥栖(とす)に働きに出て、沖縄県出身の大村さんと昭和34年の暮結婚した。それから先は病の悪化の日々である。昭和47年、半身麻痺。昭和49年、神奈川県平塚に迎えた父が痩せきってヨダレをたらし、ケイレンをくりかえしながら狂って死んだ(水俣病と思われる)。昭和51年、トミエさんは、水俣病申請をしたが、そのまま待たされている。トミエさんのような、しかも申請もしていない水俣病県外患者は、何人いるのだろうか。

「23年頃からの不漁で、私らの年代の上の娘たちはほとんど大阪、名古屋に出た。電気消された家も多かったし。だいたい2、3万のお金で売られた。1万円は今の10万円以上だろうけれど。みんな帰っていませんよ。帰れるわけがない」と、昭和58年、川崎のアパートに訪れたときに、体が小さく縮こまってしまったようなトミエさんは語った。湯堂は不漁になると、いっぺんに食えなくなる漁村だった。

つづきは「湯堂という漁村の運命(2)」


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