水俣病をめぐって、このところ、「責任をとる」ということを、しきりに考える。
水俣病をひき起した責任に対して、「責任をとる」と言った場合、その発言に続いてどのような営為がなされるのてあろうか。その最良の営為のあり方を探るのは無意味とはいえない。しかし、探りはじめる冒頭において、水俣病発生の「責任をとる」ことの不可能性が直感的に把握されるために、「責任をとる」とはどういうことかについて、私たちは執着しつづけることができなくなっている。といって、責任がとれないとしたら、加害者がどのように振舞うぺきかについて、追求する姿勢にも欠けていると思わないではいられない。
若年の患者で、しかも患者運動総体を牽引する力量を備えた、水俣病認定申請患者協議会会長の緒方正人が、1985年末に会長を止め、協議会を止め、申請までも取り下げた背景には、チッソが、「責任をとる、とらない」の現場から遠く逃亡してしまい、患者と地方・国家行政との間の攻防を他人事のように見ている事態に対する憤りが直接にあることはいうまでもないだろう。しかし間接には、チッソのみならず、水俣に有形無形にかかわる者たちが、この巨大な重層的被害の責任をとることは何人(なんびと)にもできないと直覚しながら、しかも、「責任をとれない」ことの重大性について考えを深めないことに対するいらだちがあると思わないわけにはいかないのである。
もっと直截に言えば、チッソを含めて、「責任がとれない」ことをはっきり共有できた地平から開ける、あるなにかの世界に、緒方正人は強烈なまなざしを投げかけているのではないだろうか。
さかのぼってみると、二つのことがひっかかる。一つは、すでに亡くなったチッソ島田社長の、川本裁判ての証言である。
問・証人は「恨むなら私だけを恨んでもらいたい。私がすべて責任をもつ」というような趣旨の話をしていますね。
答・そういうふうな発言をしたんでございませんので、会社というのは、社員の生活の場だから社員は本件のことについては、実は雇われている人ですから、責任はないんだから、だから私が全責任をもつから、私を罰しても、支配下の会社の人は許してほしい、こういうことを言ったと記憶しております。(水俣病自主交渉川本裁判資料集、455ページ)。
全責任は社長にあると言い切ったのは、島田社長がはじめてではないだろうか。島田賢一は、昭和46年に社長になり、同年10月の川本輝夫たちへの水俣病認定に際し、水俣病の疑いのある環境庁救済認定患者と水俣病認定患者は、おのずからちがう存在であって、前者への補償の義務なしと突っぱねた当事者になった。しかし、とにもかくにもチッソが、川本輝夫たちの、いわゆる新認定患者の自主交渉の要求をのむに至る背景には、この証言にみられる責任の自覚が、なんらかのかたちで入っているだろう。島田賢一は社長を退いた後、読経の日々を送ったといわれる。だがやはり、全責任は我にあると言った瞬間に立ちのぼる空しさから目をそらすわけにはいかない。
太平洋戦争の他国自国の累々たる被害に対して、天皇が、全ての責任は朕にあると言ったとする。とたんに天皇一人以外の者は無辜の民たりうるのか。天皇制の下では、もともと天皇に全責任がある。そのゆえに、何層にもわたる中間権力者は、天皇に全責任を負わせながら、恣意的行為に走ることができる。しかし、権力機構の末端に行くほど、恣意性は忠誠心と一体化する。C級戦犯の問題は、ほとんどここに存しているのだろう。
国家と企業とは、たやすく同列に論じられないことはいうまでもない。しかし「平時戦時ヲ間ハズ国家ノ存立上最モ緊要ナル地位ニアル」(水俣町漁協との漁業権放棄<契約書>、昭和18年)水俣工場の戦後十数年の歴史は、戦争の継続であり、国家への忠誠と資本の利潤の追求は見事に調和していたのである。だからチッソは、責任を全て国家に押しつけることができ、また、その気になればチッソという疑似小天皇制国家の、その長が自分に全責任があるといえるのである。
唯一責任体系では、唯一者をのぞく全ての者は限りなく無責任になることができ、しかも、唯一者が責任が己れにあることを明言するとき、責任はどのようにしても取れないことが突如判明する。それゆえにこそ、唯一責任体系では、唯一者が責任をとると明言することを死力をつくして回避する。下位権力機構のどこかに失策の責任がある。となればシワ寄せが末端にくることは目に見えている。そしてシワ寄せされた責任の持主は、忠誠心の固まりとなるか、犠牲者としての恨みを抱いて、自殺する。あるいは、社会的に抹殺される刑に服する。いずれにしても責任は宙に浮いている。
だから、チッソ社長島田賢一が、全責任は自分にあると言ったとき、何かが劈けたはずなのだ。急性激症で苦しみぬいて逝った人たち、胎児性患者の人生、慢性症状に侵された無味・無感覚・頭痛の世界、そして貧困、社長一人でどのように責任をとるというのだ。自主交渉が患者側の営々とした苦悶によって続けられ、第一次訴訟勝訴をうけて、ついに協定書が作成された、そして細目交渉が水俣現地で続行され、胎児性患者の将来について話し合われようとするときまで、何かが劈けつづけていたと思われる。
浜元二徳間き書きによれば、この時期は、昭和49年3月31日の水俣病患者同盟結成から同年8月1日の水俣病認定申請患者協議会結成までの、5か月間にあたる。同盟は、一人ぬけ二人ぬけ櫛の歯が欠けるようにメンバーが去って行き、付帯細目協定交渉は一か月ごとが二か月ごとになり、胎児性患者の将来が語られようとする頃、ついに開かれなくなったという。
この間の経緯について何か指摘できる材料を私はまだもっていない。しかし、チッソをもまきこんだ、水俣病の被害の責任を誰もとることができないという底なしの深淵の凝視が、少なくともチッソ側によって再び回避されたといえなくはないと思われる。全責任は社長にあると言ったとたんに生じたヒビわれ、それは、ネコ実験の結果を知っていた技術者、サイクレーターとアセトアルデヒド排水は全く無関係であることをわきまえていた製作技術者(現大学教授)、通産省官僚などの諸責任までを含む、人間の諸活動に対するある巨大な怖れを噴出させたのだが、その裂け目がまた次第に閉じてしまったのである。
二つめは、水俣病補償処理委員会委員三好重夫の発言である。
「人命の尊貴という点から見ても、命に値段を附し得るものてあろうか。如何ほど金を積んでも、命には替えられぬということこそ人命の尊さを物語るものではなかろうか。……私には、命の値段をガ強調すること自体が、人命の尊貴ということを汚すもののような気がしてならない」(「水俣病ポカ処補償理始末」全国市長会発行「市政」昭和45年6月号)。
「天皇陛下の官吏というのは、与えられた職責に矜持を抱くこと」であるという内務官僚三好重夫にとって、命の無値段の主張の帰結は、「命の値段は一銭五厘」なのである。命の値段はつけられない、命の値段をうんぬんすることは命に対する講灘であるゆえに、人の命は葉書一枚の値段になる。
この論理の展開は、「人はパンのみにて生きるにあらず」、共同体を支える精神的紐帯こそが真に大切であることを示している。これは単に権力機構の維持発展のために、外在的に民衆に押しつけられる論理でない。共同体のあるところ、必然的に生れる論理である。人の命の価値は測れないがゆえに、共同体のための死は、彼岸において人が神となることによってしか償なわれない。そして、神として祀られ永久に共同体の記憶となるかぎりにおいて、人は自分の命が一銭五厘であることに耐えられる。耐えられると錯覚する。
だから、チッソやチッソをバックアップする日本化学工業協会や通産省などが、チッソの企業活動がたとえそれが経済という領域であっても、日本国家の戦争の継続であり、戦争であるかぎり犠牲はやむをえないというのであれば、同時に彼らは、どのような共同体として日本は存続しているかを開示するとともに、犠牲者は手厚く祀られなければならなかった。
昭和34年11月2日、水俣市立病院に国会議員団が姿を現わしたとき、入院患者から放たれた「てんのうへいか、ばんざあ−い」の叫びは、事の順序として、まず祀られなければならない、そのことが行われていないことに対する痛烈な告発であったのである。あるいは昭和44年10月15日、水俣病裁判第一回公判の日、原告園長渡辺栄蔵が、「ただいまより国家に刃向う」と叫んだのも、日本国家の権力機構が国家運命共間体を民衆に押しつけながら、実は共同体を自ら瓦解させていることに対する怒りであった。
堀田善衛は「方丈記私記」において、天皇制を支える民衆のかぎりなき優情について述べた。民衆の優情にはかぎりがある。苦しみが悲惨であればあるほど、その救済は、この世では最終的にはなされない。命に値段はつけられず、死んだ人は返らぬ以上、償ないは彼岸にわたって行われなければならない。救済がこの世に限定され、しかも金銭でしか表現されないとき、民衆の優情にはかぎりがくる。たとえどのように金を積まれてもだ。
水俣は、チッソの誘致によって、資本主義化が急速に進行し、周辺地域よりも早く共同体が崩壊した。しかし、失われる共同体への希求はそれとして意識されることはない。労働力の売買という契約を越えて、人と人との関係において到底処理しきれない災厄が発生するとき、資本主義的近代化に抗して、共同体への希求がはらまれるのである。そしてそれは、先祖返りとして限定されているわけでほない。共同体は、人と人との結合、人と自然の結合、人と人を越える何ものかとの結合の三結合の、どれを欠くこともできない。その枠内において、人は新しい共同体を創造することができる。
以上述べてきた二点、すなわち責任のとりようのないこと、及び命に値いをつけられないことは、水俣病犯罪・災害の償ないが、なんらかの共同体に向う人々の意志、あるいはその具体的表出なしには終らないことを指し示している。緒方正人の行動は、水俣病発生以来、ずっと流れてきたこの伏流水の噴出である。1986年1月6日付のチッソ社長野木貞雄あて「水俣病」問いかけの書で、緒方正人は言う。
一、父を殺し、母と我ら家族に毒水を食わせ、殺そうとした事実を認めてほしい。
一、水俣病事件はチッソと国・県の共謀による犯罪であり、その三十年史であった事実を白状してほしい。
償ないの第一歩は、人殺しを認めることである。そのことを心から認めるならば、私はあなた方を人として認め、その罪を許すことが出来る、と緒方正人は言う。これは、チッソを介した私たちへの緒方正人の、新たな共同体への赴きの呼びかけに他ならない。そのようなものとして、緒方正人の次の結語は輝いている。
人は自然を侵さず、人は人を侵さず、人は自然の中にはぐくまるものなり
人は人と人との間に生きる人間でなければならない。
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