「水俣病を告発する会」(略称「熊本告発」)の月刊機関紙「水俣−患者とともに」は、1973(昭和48)年9月、通算50号を第1号としてはじまった。
「熊本告発」は、1969(昭和44)年4月、「水俣病患者と水俣市民会議への無条件かつ徹底的な支援」を目的として結成された。同会のメンバーである渡辺京二の言い方(『わが死民』石牟礼道子編、現代評論社、1972)によれば、水俣病患者との「心中志願者集団」であり、「同行者集団」である。「義によって助太刀をいたす」という、有名になった同会のスローガンの「義」とは、そのように重い意味をもっていた。
1968(昭和43)年9月、政府は、その内容は明らさまな虚偽にみちてはいたが、ともかくも不知火海水俣病の発生源がチッソ水俣工場にあることを認めた見解を出した。それまで12年間、全く圧殺されていた患者互助会は、はじめて<お願い>ではない声をあげた。そのなかから渡辺栄蔵を代表とする少数グルーブが、翌1969年の6月、「今日ただいまから、私たちは国家権力に対して、立ちむかうことになったのでございます」という吶喊とともに、「水俣病第一次訴訟」に踏みきったのである。
そして「提訴にあたり、全国に支援活動をまきおこすための媒体」として、まず、熊本告発の「告発−水俣病裁判支援ニュース」が発刊された。東京告発から発行された、この「告発一水俣病裁判支援ニュース」正続二冊の縮刷版こそは、戦後日本における底辺民衆の憤怒の記録である。
1973年、チッソと差しで対決しようとした困難な自主交渉をバックに、患者側は第一次訴訟に勝ち、年金・介護料を含む「協定書」をチッソにのませた。「水俣病闘争は一つの山を越えた」(「告発−水俣病裁判支援ニュース」終刊号)。そして「終りなき闘い」の新たな局面を迎えるにあたって、新たに「水俣−患者とともに」が発行されたのである。第1号にしてかつ通算50号と名乗ったところに、この「水俣−患者とともに」の性格がある。
『縮刷版水俣−患者とともに』(水俣病を告発する会編、葦書房、1987)は、この第1号にはじまり、1986(昭和61)年10月の第137号までを収める。21の水俣病訴訟一覧と水俣病年表を付した大部な記録である。
13年間のこの記録を総体としてつらぬいているものは何だろうか。思いは胸中で際限もなく循環して言葉として出ていかない。
ただ、「ただいまより国家・・・」ではじまった「告発−水俣病裁判支援ニュース」を<患者の意志>の時代とつかむかぎりにおいては、この「水俣−患者とともに」は<国家の意志>の時代ということがてきるだろう。
「大飯喰いの大糞だれの資本家」(荒畑寒村・水俣講演、1976)のあと始末を、「なぜチッソだけが」(児玉隆也「この三十年の日本人」)というチッツの悪どい体質を利用して、調停者的につけた<国家>が、オイル・ショックを契機にいよいよ前面に登場し、<水俣の今度こその幕引き>を次第に露骨に計っていく、少なくともそのことは明白である。どのようにしても当事者であることを免がれないはずのチッソは、後景に退いて、県債と称する税金でもって、患者補償費を右から左に支払っていればよくなった。
その転換期に、いわば静かに「水俣−患者とともに」はスタートした。「患者とともに」というサブタイトルは、静けさのなかで重苦しいばかりの緊張をはらんでいた。タブロイド版からB5版に縮小し部数を大巾にへらし、活字は大きくなった第1号で、熊本告発の代表本田啓吉は、「これからの患者家族のたたかいは、いままでのように表面にあらわれ出るものなど何一つないたたかいだろう。離れることもない病床でのたたかいであり、日々の生活に耐えつつ語られることのない胸の奥のたたかいてある。このたたかいへの参加のしかたを今までとは全く違う形でこれから私たちは目分でつくり出していかねばならない。『水俣−患者とともに』はたぷんその模索の記録となるだろう」と発刊の辞を述べた。
いよいよ「同行」の本義が問われ、「同行」の試練にたたされるのである。ほとんどは有形にならないたたかいへの参加を要請されているのである。
ここに表わされた覚悟について、その深さについて、私は測ることができない。重苦しいばかりの緊張というばかりである。
私のものいわぬ娘は、ほそぼそとは目が見えて、画面にひたいをくっつけるものの、テレビを楽しんだり、屋外で一生懸命歩き、すべり台にのぼって空を仰いたりしていた。外に向かっていたのだ。それが、両眼の水晶体を全摘しなければならない事態となり、手術後は全く目を閉じてしまった。目は閉じていても天の方を向けば、少なくとも片目はまぶたを通して光を感じることがてきるはずなのだ。それが、下を向いてじっとうずくまっている。私は、とうに「同行」することを決めているのに、どうしていいかわからない。
たぶん、たぶんこのような思いの何倍か、何十倍かが本田啓吉の言葉にこめられている。
見渡せば闇なのである。そして闇中に石を拾うべく心を鋭ぎすまさなくてはならない。
第36号(1976・8月)に、激症患者村野タマノの死を悼む文を石牟孔道子が書いている。「水俣に嫁にくる、ずっとずっと前、炭坑の坑道を上ってみたら夜があけていて、その朝あけの青い空に『B29のなあ、まっ白かB29が、えらいしこの数、飛んでゆきよってなあ、もう、きらきらきらきら光って、美しかも美しか。バクダン落し来よるちゃ、とても思われんかった。炭坑ん、穴ん中から、這いあがったばかりやったき』」。闇には空があった。
「水俣に嫁御になって来さえせんば、こういう体にゃならんじゃった」とふりかえる過去は、やほり闇だった。闇だけれど空があった。そして空が海に落ちこんで(とは誰がいったろう)、天も病んでしまった。
「(渥美湾の)この魚のためにこの幼い子供たちが水俣病になったとしたら、わたしは気が狂い、神も仏も呪うだろう」(杉浦明平「水俣湾と渥美湾」第41号、1977)は、それはそれで痛切であるけれども、やはり、いわば、健康な天への思いなのである。
闇のなかからという。暗き淵よりという。その意味を、万が一にもとりちがえてはならない。宇宙を疾走した果ては出発点にもどってくるように、宇宙にはなった視線はついに自分に収斂してくるように、闇の外はないのだ。
神も仏も闇の中に臥している。光は、もし放たれるなら、この闇の中からである。全てはこの闇の中にある。そして病んでいる。
水俣病第一次訴訟判決10周年の挨拶で、渡辺栄蔵は「裁判中には、私についてもいろいろのことがありましたが、今さら申し上げようとも思いませんが、私にとりましては、あまりに残酷だったと思いました」といい、「丁度10年の年月を迎えました。さあ、私にとって次の10年がやってくるだろうかと思えば、ぞっとする思いがします」と述べる(第100号、1983)。
同じ時期に、「患者とともに」の拠点である相思社10周年の総括のなかで、熊本告発の松浦豊敏は、相思社が世に顕れることなく岩のような存在になることが最も厳しい告発ではないかと、「かすかに鶏の戸を聞きながら、ふとそんな疑問にさいなまれたりする」という(第108号、1983)。松浦は、おそらく渡辺栄職の挨拶に、「かすかな声」を聞いているのではないだろうか。
そのような「かすかな声」は、水俣病患者認定申請協議会長である若き患者の緒方正人が、会長を止め認定申請を撤回して、チッソに突きつけた「問いかけの書」(第103号、1986)の中の一節、「ここは墓場である」からも響いてくるだろうし、同じく若い坂本輝喜の、「俺ら、今の人達や親連中のように、元健康人じゃなかでね」という発言(第137号、1986)からも発しられているのかもしれない。
「患者とともに」というスローガンは十数年を経て、一見背理と思われるような「かすかな声」に呼応して、いよいよ真正化しつつあるのだろうか。いずれにしても、真にたたかうことと腰を据えることの弁証法的関係は、さらに露わになってきたといわねばならない。
「水俣ー患者とともに」創刊の本田啓吉の辞に導びかれて、ここまで来てしまったが、より見える機関紙としての「水俣−患者とともに」は、日ならずして元のタブロイド版にもどることになった。
1975(昭和50)年10月、「水俣−患者とともに」号外は、「重症患者を不当逮捕、患者組織破壊をたくらむ−総力をあげて反撃へ-」の見出しを掲げている。強いられた、いわば見えるたたかいの開始である。
この号外から「水俣‐患者とともに」はタブロイド版の「告発−水俣病裁判支援ニュ−ス」スタイルとなるが、攻防の防に傾くのはやむを得ないことであった。
1973(昭和48)年の転換期からの<国家意志>の発現は、第一には第三水俣病の封殺であり、第二に患者救済打切りであった。
第二については、すこし細かく分ければ、補償成金攻撃、ニセ患者呼ばわり、水俣病認定基準見直し、大量棄却、審査業務遅滞、申請患者放置と倦むことなく続いていく。
第一段階と第二段階のほとんどは医師・医学者の協力がなくては行われない。そして協力者の条件は、特殊には憂国の情と権力志向の持ち主、一般には学問(医学)の客観性・厳密性というイデオロギーの信奉者である。
医師以外の者にとって、この特殊条件はわかりやすいが、一般条件はわかりにくいのである。したがって協力者は、ことさらにこのイデオロギーをふりかざすことになる。このことについて今論じる紙数はない。そのような医師の一人によって、医師のモラルに根本から反する「ニセ患者発言」がなされ、患者支援者の逮捕につなかったことを指摘するにとどめる。
いずれにしても、水俣病被害者の見えるたたかいと見えないたたかいが<国家>を結節点としているのはまちがいのないところである。そのことを『縮刷版水俣−患者とともに』は鮮やかに示している。
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