喘息のせいばかりでなく、水俣や水俣の周辺の部落をそっと歩いている。
私は、世代的にいえば、昭和11年の生れである。新生日本の幕間けの昭和21年が10才、そして水俣病が公式に記録される昭和31年は成人の年である。「もはや戦後ではない」と経済白書は謳った。科学技術庁が発足し、日本原子力研究所は翌年の「原子の火」を灯す準備をしていた。
戦後日本の枠組みをなす議会民主主義のつくり手であるロックによれば、成人に達したとき、青年は自分の住む現社会を、認めるか、拒否するかの選択をしなければならない。認めるなら、社会参加をして行くことになる拒否すればどうなるか。親の財産をゆくゆくはもらうつもりの青年は、私有財産社会を拒否するわけはない、とロックは考えた。いかにもロックらしい。しかし、社会が青年を迎え入れるのでなく、とにもかくにも青年が社会参加するかどうか決めるというのは、時代を画す思想であった。さて、成人の私はといえば、科学技術の進歩に期待し、自然も社会も改造できると思い、そのかぎりで現前する社会を認めようとしていた。水根は頭の中にまったく入ってこなかった。昭和35年、三池争議の現場に行ったときも、水俣のことは考えになかった。今、水俣の地を頭を上げて歩くわけにはいかない。
ついでに年代記をすこし足すと、10年後の昭和41年、東海原発が営業を開始し、中教審が「期待される人間像」を出した。私は、生物の実験的研究をやっていた。20年後の昭和51年、4番目の子にダウン症の量子が生まれた。そして今年(1986年)、当然ながら50歳、水俣に通いだして9年になる。
しかし、20歳のころ水俣病のことが念頭になかったのは、身が捩れることのあくまでバックグラウンドであって、もう少し直接的な、そっと歩く原因はあるのである。
岡本達明さんという人がいる。東大出の、チッソ水俣工場第一労組の輝ける元委員長である。昭和43年に労組が「何もしてこなかったことを恥とし、水俣病と闘う」という「ハジ宣言」を出した当事者である。水俣の丸島に住む。
この人のところへ、東大工学部教授の西村肇さんが連れて行ってくれた。西村さんは、プランクトンでの無機水銀の有機水銀化の予備調査で、私たちのチームとの共同研究ということで水俣に来ていた。岡本さんは、彼に組合の長期方針をつくるデータか何かで恩義があるらしく、<久闊を叙する>的に和気藹々としていた。ところが、私に向うと、とたんに目は燐光を放たんばかり、苦鋒鋭く、私は痛烈に罵倒された。私のフィルターを通すと、岡本さんは、「ろくな仕事もしないのに、学者であるふうに受けとめられるのに寄りかかって、そこらをウロチョロ歩くな」ということを言った。
罵倒されて喜ぶ人間はいない。でも、初対面で一方が一方をもの凄い勢いでやりこめるというような事態は、憎悪だか愛情だかがからんでいるのであって、そしてインテリの間では意外とこういうことがおこりやすいのである。もっとも、大学ではこういうことは絶対に起らない。気色悪くなるほど紳士的である。
情容赦なくたたかれるのは、大学の中にいるかぎりはおこらないという意味で、向かっ腹は立つけれど、有難いことなのだ。もう一つ、インテリの声は民の声という場合があるのだ。これは、ズシンとこたえてなかなか立ち直れない。
水俣・芦北地域を歩いて家々を訪ねると、大学の先生ということでは文句なく遇してくれる。教授だろうが助手だろうが、あまり関係はない。東大という大学名は、やはり威力をもっている。しかし、「さぞ御苦労様ですなあ」というねぎらいは、連来の客を遇する一般的慣習のなかにとどまっている。そして、大学の先生のやる仕事といえば、偉い仕事であれば自分たちと関係がないのだし、自分たちに関係してくるとすれば、それはろくでもない仕事なのだ。せいぜい良くて、「ギョエテとはわれのことかとゲーテ言い」というように、吹き出し笑いや憫笑をかうだけである。
ただ人々は、慎み深く、優情をもって客にそのような気配をさとられまいとする。もし人々が本音をもらしたら、それはたぶん岡本さんのような言い方になるだろう。でも決して言わない。
「常民」というふうな人々の慎み深さや優しさは、疑うべくもない。しかし、学問研発に対して、あるいはそれをやっていると称する人間に本音を吐かないのは、そのような心情だけからではないのである。江戸時代に武士が村落をまわって聞き取りをする場合のことを想像すると事情は明白である。本音の吐露は、畢竟するところ暴力によって抑えられている。
常民は、はっきりとした二重構造を生きてきた。自分たちを収奪し支配する武士たちは、徳川政権の意向によっていとも簡単に入れかわった。天皇はかすんで見えず、さりとて徳川政権が即国家でもない。定住し生産し、苛斂誅求に対抗するための防衛的閉鎖的村落自治を発達させた常民にとって、自分たちと関係なく首のすげかえが行われる武士集団という<向う側>全体が、ばくぜんとした国家だったのだろう。そのような人々にとって「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」という、日本でも太平洋戦争中愛用される、あのパスツールの言葉などはきわめて胡散臭く感じられたろう。
そして明治維新によって失職してしまった武士集団は、自らはなんとか官吏にもぐりこもうとし、子弟は国家立大学に血まなこになって入ろうとした。全般的に言って学問と国家は無理なく結びつき、学問の担い手も総じて<向う側>の人々だった。常民といわれる人々にとって「例えば水俣から海上20キロの御所浦島の横浦の昭和32年の調査(田中一生)によれば、地引網の網元で、子どもに学問をさせると役立たずの<向う側>の人間になってしまうと考える人が厳然としているのである。
国家すなわちお上と学問の、品悪く言えばつるんだ関係は、水俣では、ことに歴然と見られた。「平時戦時ヲ問ハズ国家ノ存立上最モ緊要ナル地位ニアル」(昭和18年漁業補慣契約の案文)新日窒は、後にチッソと改名するのだが、戦後、経営・技術陣とも東大純粋培養型になり(児王隆也)、労災事故が頻発する平時の戦争を進めた。私が漁業上いろいろと教えてもらった湯堂(水俣病激発地)の故宮下優さんの奥さんのフジエさんは、3人兄妹だが、兄2人はチッソで1人は爆発事故で死亡、1人はミキサーに転落してミンチにされてしまった。
そして水俣病発生後、水俣病隠蔽の国家の意志を明白に体現して積極的に動いたのは、チッソの東大技術陣を別にして、清浦雷作東工大教授、黒岩義五郡九大数援、結果的に国家の意志に沿うたのは、水俣病昭和35年終持説を説えた徳臣晴比古態大教授、その中間に隠然と黒に近い灰色の日本医学会会頭東大医学部教授田官猛雄がいる。もちろん、これらの人々に、多数の学者と東大出の官僚がつながっているのである。
<向う側>の学者、あるいは学問をおさめた者と、<こちら側>の住民、水俣にあっては主に海辺の人々との間に、学問の本質を通しての交通はない。だから徳臣氏が、いろいろ誹謗を受けたけれど、「私は己れに、また学問に忠実であっただけで些かの梅いも無い」(『水俣』桑原史成写真集、径書房、1986)と開陳したところで、海辺の人々からいささかの共感も得られないだろう。徳臣氏が水俣病の原因究明にどれほど献身的であったかは、当事者の知るところである。しかし、苦しみと怒りと怨みから、涙と悔いと祈りへと回帰する<こちら側>とは、緑なき衆生である。
<向う側>の学問と、常民といわれる人々を結ぷパイプは、実利である。貧困を脱する実利的手段を生み出すかぎり、学問は認められる。ところが<向う側>の国家がらみの学問の振興の大方針は、明治日本が西欧近代に追いつくための、土台を切り捨てた実利追求だった。ピーエッチぬきのDづくりだったのである。私は博士号をもっていないが、もし持っているとして外国へいけばPh.Dとして自己紹介をし、またそう思われるだろう。これはほとんど詐欺に近い。Ph.Dとはドクター・オブ・フィロソフィの略であって、おしなべて博士はPh.Dなのである。明治日本は時間を短縮するために、Phを和魂に、Dを洋才に振り分けて、後者を学問と称した。Phとは、「学問とは何かについてキリキリ舞いすること」である。和魂に、そのような懐疑と煩悶はない。
水俣に惨苦と悲劇がかくも拡大してきた要因の重大な一つに、この煩悶なき博士、懐疑なき専門家を生み出してきた、そしてそのことによって日本国家に実利をもたらした、日本国家立大学を挙げることができる。人々は、実利だけは実感できた。しかし、実利の肥大化は生存の危機をもたらす、そのことを水俣は示した。そして学問への不信はいよいよ抜きがたくなった。
水俣の地に、水俣の体験とその意義を咀嚼し、継承し、<こちら側>に学間の復権をはかる機関ができたらと、やはり<向う側>でしかない私は、そっと水俣を歩きながら考える。しかし、もし「水俣大学」というような機関ができるとしたら、それは決定的に<こちら側>の人々の意志にもとづくものでなければならない。<向う側>からはみ出た、あるいははね出された学者・研究者は、あくまでも協力者でしかないだろう。
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