家族がしあわせを感じる瞬間
わが家の四番目の末子の星子は、考えてみると五歳になる。この子に固有の時間は、ゆっくりゆっくり流れているので、親も含めて家族の年齢はふつうに話題になるが、星子の生理的年齢だけは、数えてみるともうそんなになるか、というふうになる。別に避けているわけではなく、数えたてても意味がないということが、家族にごく自然に浸透してしまったのである。
ダウン症としては重いほうなのだろう。二年かかって、いまは広いところだと畳三枚分ぐらい歩けるようになった。まだ哺乳瓶からでないと牛乳をのまない。麺類と、おじやと、ヨーグルトがずっと続いている。まだ、言葉はない。遊べる玩具はなく、ゆいいつカセットレコーダを抱えこんで飽きずに聞いている。最初のころ、サウンドオブミュージックのサウンドトラック版が気に入ったらしいことがわかったときは、家族みんなが、一日中浮き浮きした気分につつまれた。いまは、デキシーランドジャズを好む。
ダウン症児には通有のことなのだろうが、星子もまた、融通のきかない、はげしい気性の持主で、母親などは本気になって喧嘩している。全体としてはマンマン様的なのだが、なかなか柔和なマンマン様とは言い難い。
この子は、すごい力を行使していると頻繁に思う。それは、星子のもっている時間軸とわたしたちの時間軸がちがっていることからおきてくるのてある。やらなければならないことに次から次に追いまくられて、余裕がなくなり、あせったり愚痴ったりし始めると、星子は、まずつき合ってくれない。抱き上げても、もがいてすぐ逃げてしまう。母親から逃げ出して、小学校四年の姉のところばかりに行くのを端から見ていると、そのとき、確かに母親はいらだっているのである。父親は、だから一番敬遠される度合が多い。
しかし、いらいらがのぼりつめて、ふとつきぬけて、陽はまた昇る--天が下、なんの新しいことが起こり得ようか--夫婦はよろしく睦み合うべきである、といった感覚がもどってくると、星子は、すばらしい笑顔をみせてくれる。言い方にやや誇張のきらいはあるにしても、的ははずしていないつもりてある。逆側からいうと、星子が、逃げもせずじっと抱かれて、日向ぼっこをしているようなときに、わたしは、人為が介在できない悠久とした時間の流れにひたっているような気がしてくる、ということである。それは、しあわせのような気分を伴っている。
星子がゆったりした笑顔をみせるかどうかは、わが家の雰囲気をはかる試騒紙のごとくである。家族が平静であれば、星子は笑顔をみせるし、星子がそのようであれば、家族はみんな解きほぐれてくる。
御多分にもれず、経済的なことから対人関係にいたるまで、社会の支配的な時間の尺度は容赦なく、わが家を埋めつくそうとする。そして、そういう尺度をはねかえそうと努力すること自体が、そういう尺度の埒内にあるということがアポリア--原理的矛盾なのである。努力ではなしに、おのずからの弛緩でないと、あるしあわせな気分は、家庭内にただよってこない。そういうふうに、星子は、圧力をかけているのである。
弛緩ばかりでは暮せない。いまの社会では。あるいは、いまのわが家の生活形態では。のんびりするために、やはり、いまのところ様々の努力をする他はないようであるが、しかし、努力の方向だけは、はっきりしている。
それは、少なくとも管理社会完成のヴェクトルとは反対のはずである。
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