返信10:客観について 続き(最首悟、2019/4/13)

序列をこえた社会に向けて

モノは客観的に見ることができる。すなわち、そのモノを利害や好き嫌いを離れて、自分とは無関係に、冷静に見る、ということができる、ということです。冷静にとは、合理的にとか、理解とか、科学的にとか、数学的に、というような処理の仕方に通じます。科学的にということと、数学的にということはほとんど同じ意味で使われることがあります。

自分と無関係に、冷静に、ということが大事なのですが、はたしてどんなもんだろう、というような曖昧な思いが湧いてきます。例えば、そこに石があるとします。石があるなあ、それだけのこと、そこを通り過ぎる、もう石のことは忘れている。ではそこに犬がある、犬があるなあ、はどうでしょうか。少なくとも日本語では、犬があるとはいいません。逆に石がいるともいいません。桜の花が咲いているといいます。この「いる」は状態をさします。「犬がいる」の「いる」は、犬を見る自分とその犬との間に、見るだけではない関係があることを意味します。その犬が襲ってくるかもしれない、ついてくるかもしれないなど、自分に直接かかわる事柄が「いる」に含まれていて、そういう「いる」を漢字で「居る」と書きます。

桜だってそうだ、どうして桜は居るといわないのか、そう思う余地はいっぱいあるのですが、桜は動かないので、自分から、見る私の方に近寄ってこない、あるいは去っていかないということが、大きな違いに思われて、動く生きもの、すなわち動物と分けて、「居る」という表現は使わないことになったと考えられています。それでも桜はあるとはいいません。桜が存在するという言い方がないのです。桜はもっぱら状態をあらわす「いる」を使います。その中に自分で動く、移動する意味を含んだ「居る」が浮上してきたと考えられます。

じゃあ、自動車はどうなんだといわれると、自分では動かない他動車なので、自動車が居るとは言いません。じゃあ、ロボットはどうなんだと言われると、これは難物です。ロボットが居るとは言わない、とは言い切れない、ここが大問題です。避けては通れない問題だということを確認しておいて、「居る」という表現にもうすこし関わります。

「居る」という言い方は欧米にないといわれます。それは関係性が組み込まれているからだといわれます。欧米では何々が存在するということがまずあって、それから次々にその何々はどのようにあるのかを説明していきます。「居る」は、すでにどこにあるかを含んでいて、場所とか場がくっついているのです。そしてさらに場合もくっついているのです。場合は状況という意味合いですが、少し立ち入ると具合であり、具合の合計が都合になります。「万象お繰り合わせの上、ご出席ください」という丁寧かつ強い口調の招待がありますが、どうしても都合のつかない場合があるのです。

「居る」が居る場を含み、場がその場の関係のあり方を示すとき、場を関係場といいます。場と急にいわれると、すごくむずかしそうですが、電磁場といわれると、むずかしいながらも電気や磁気がおたがいに関係しあって、生まれたり消えたりする舞台みたいだなあと思います。それで場を生成関係場というときがあります。野球場や劇場では、選手や俳優が観客と濃密に関係しあって、興奮や感動、落胆や悲しみが生まれます。

居るというとどうしても場が伴い、場というと「間」が出てきます。時間、空間であり、世間であり、中間であり、仲間であり、そして一間、二間の距離をあらわす単位です。仲間の「間」は間柄の関係を表しています。「人間」はどうでしょうか。なんとも思わずごくふつうに使っていますが、考え出すと実に不思議です。人を指して人間という。ふつうに使い出したのは明治からのようです。もとは人間(じんかん)と言い、「人の棲む場所」を意味しました。

それが人を指すようになった移行期は中世か、とされます。その末期、織田信長が謡曲の「敦盛」のなかの「人間五十年、下天の内にに比ぶれば」を「本能寺の変」で謳い舞った、かどうか、事実ではないようですが、「人間」を「じんかん」というのは確かです。意味は人の寿命、人生です。それが「にんげん」という人の意味で使われるようになったのは近世で、井原西鶴の文に出てくると指摘されます。そして明治の近代化の中で一般に通用するようになりました。

その事情としては、マンやヒューマンを翻訳するのに、人よりもまだあまり使われていないことや、格式ばった感じになるというようなことが想像されます。しかし、人間は「場」と「間」を介して「居る」という言い方に密接に関わり、そして「居る」という言い方は西欧にないのです。ですから、西欧の翻訳書の「人間学研究」や「人間の探求」などは、果たして「人間」を扱っているのかという疑問が生じます。次回はもう少し人間に触れていきたいと思います。