話しがすこしズレますが、映画『クォ・ヴァディス』をテレビで見ました。ローマ時代の皇帝ネロによるキリスト教徒迫害のありようが重大な筋になっています。この映画は、1912年サイレントでつくられ、1951年ハリウッドで、ものすごくお金がかかったろう壮大な作品として製作されました。ネットで見ますと、ポーランドの作家シェンキェヴィチの「クォ・ヴァディス:ネロの時代の物語」(1895)を映画化したとあります。シェンキェヴィチはこの作品を含め、「叙事詩作家としての顕著な功績」によって、1905年ノーベル文学賞をもらっています。
この映画の時代は、キリストが磔(はりつけ)になって60年あまり経った頃、戦争での殺戮とともに、戦利品としての奴隷がいます。奴隷は売り買いができるモノですが、美しい女奴隷は性の対象であり、そこに愛情がからむようになってくると、モノか人間かの葛藤が生まれます。キリスト教は戦争と奴隷の廃止を訴える異端の宗教として描かれ、キリストに従った12人の使徒の一人、ペトロが伝道のためにローマにやってきます。ペトロがキリストに発した問い、「主よ、どこへおいでになるのですか」がこの作品のタイトルになっています。
新約聖書では、この問いが記されている箇所に続いて、ペトロは、キリストにどこまでもついてゆく、命も捨てる、と言います。するとキリストは「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」(『ヨハネによる福音書』13章)と予言します。実際その通りのことが起こって、そのことがペトロをいっそう強固な伝道の使徒にならせたということです。
宗教の開祖には、予言、ご託宣があります。そして実際に与知能力があるのだという証拠が語られます。そんな能力あるはずない、とは言い切れません。しかしまた、そのような能力がしばしば発揮されては、世の中立ちゆかないでしょう。このような話しになったのは、実は「クォ・ヴァディス」の作者に、予知能力というか、予知夢があったとされるからです。エレベータに乗ろうとして金髪の青年に出会います。三晩繰り返された悪夢の中の青年で、シェンキェヴィチは恐怖に駆られて階段を駆け下りた途端、乗ろうとしたエレベータが落下したものすごい轟音がします。シェンキェヴィチは死を免れたのです。そういう体験が「クォ・ヴァディス」を書いた一因になっているのかもしれません。
ご託宣の一つに、親鸞の「悪人正機」があります。もっともこの言葉が記された『歎異抄』は、親鸞死後200年のことで、流布するのは、さらに400年後の明治時代ですから、そのことだけでも問題含みで、誤解を招きそうな、考えてもなかなかわからないご託宣なのです。
「悪人正機」の機とは、きっかけとか、かなめという意味です。仏教では救いが問題になるとき、救いの対象、本命は悪を犯した人なのだ、ということです。救いとは悪人が第一に救われることだ、という意味ではありません。ただ親鸞の説くポイントは「他力本願」です。一般に宗教では、救われるとはそもそも悪をしないこと、そして悪をしてしまったら、その後、そのことを心から悔いることです。
親鸞は、くだいていうと、仏さんはそんなにけちじゃないんだ、というのです。仏教はもともと悪をしてしまう人のあさはかさ、もろさを見据えているのだから、そういう弱さをひっくるめて人を抱きしめているのだ、と言うのです。いや、そう言っていると私は思います。そして自分で救われるように努力する「自力本願」に対して、何もしなくたって、悪をしたって救われるに決まっている「他力本願」を説いたと言われます。
でも、こう言われると、なんだかなあと思います。太平洋戦争開戦の主たる責任者東条英機陸軍大将は親鸞に帰依して、平穏に死んでいったというのですが、それでは困るのです。どんなに小さな罪でも、被害者にとって事は、終わらないのです。そのことのためにも、犯した罪を繰り返し反芻し、罪を背負って、済みませんを繰り返しながら死んでゆかねばなりません。済みませんとは罪の償いは終わっていない、未決済だということの、自他への確認の表明です。救われるなんて毛頭思わない、それをよしとして、仏は受け入れてくれる、それが「他力本願」ということだと、親鸞は言っているのではないかと思います。日本列島人は加害意識を持たない、持てないといわれます。お人よし、甘いといわれることの裏返しで、他の文化から見れば、恐ろしいことなのかも知れません。親鸞の「他力本願」は、そのような私たちに対する強い戒めでではないかと思われます。
次回、もとにもどって書きます。