自分ということについて、なかなかモヤモヤが晴れませんが、どうしてそうなのか、もう少し続けてみます。
このわたしを、当のわたしがはっきりつかむことができないというのは、どうも本当のように思われます。わたしを規定するのは、わたし以外の他の何かということになります。ではそういう他とは何なのでしょうか。世間ということが浮かびます。具体的にいうと、家族や友達や出身校や勤め先などです。自己紹介の中身は、どこで生まれたかに始まって、履歴を述べ、自分がどう思われているか、自分の評判を述べていきます。自己紹介とは、他己による自己紹介、つまり他己紹介なのです。
わたしとは、周りの人が思っているわたしを、わたしが編集してわたしにしている、と言えばいいでしょうか。でもそれでは周りの人が変わったら、私も変わってしまわないか。そういう不安が頭の片隅にあると、あなたの信念はとか、あなたの意見を述べなさいと言われると、どうしても口ごもってしまうのです。わたしの土台はもう少し変わらないものでありたいという思いは当然です。つまり、わたしに係わる他者が変わらず、しっかりした他者であってほしいと願うのです。多くの人の、こういう願いが結実したのが、神や仏という存在です。動物神もいます。
文化人類学者原ひろ子が1960年代初めに調査した、カナダの北極圏のヘヤー・インデアンという狩猟採集民族がいます。10歳のころ森の中をさまよってクマなどの動物神が頭の中に宿るのを待ちます。宿ると村に帰って、以後一生の間、その動物神の教えに従って人生を送ります。そのこともあってか、へヤーインデアンには教育と考えはなく、大人は一切教えません。動物神の指示を別にすれば、子どもは大人のやることを見て覚えるのです。原ひろ子が折り紙の鶴を折るのを見ていて、すぐに折り出したと書かれています。
神は次第に純化してゆくというか、現在、そのよう神は、唯一神であり、世界を始めとして全てを創り出した創造神です。現在、世界でいちばん信者の多いキリスト教の神がそうです。神自身は永遠にして不滅で、いまのこの世界を創り、生き物を創り、最後に人を創りました。人は生まれるにあたって、日々新しい、つまり他にはない唯一の人格を神から賦与されます。
どういうことかというと、このわたしはこの世界で、過去から未来に及んで、たった一つしかない人格をもっているということです。すなわち、わたしの自己同一性は変化せず、保証されているということです。自己同一性はアイデンティティと言います。私の考えや振る舞いは、それは社会や周りの人の影響を受けますが、どんなに影響を受けようと、わたしの考えであり、わたしの意見なのです。自信とか、わたしはわたしであるとか、尊厳とかは、この付与された人格に由来するのです。
あなたのあなたとしてのわたしという、それぞれのあなたに振り回されるわたしでは、首尾一貫性を保てず、風見鶏のようだといわれます。昨日イエスと言ったのに今日はノーという、まるでバックボーンがなく、日本人は嘘つきだといわれると、パリから日本を見る位置にあった哲学者であり宗教家の森有正は言います。そう言われて、じゃあ、自立(自律)した個人になると決意して、そういう人になれるでしょうか。
明治維新から150年経ちました。脱亜入欧を掲げて、舶来文化文明を懸命に取り入れる努力がなされました。鬼畜米英、英語を学ぶことが禁じられる時代を経て、国民主権の憲法を持つようになってから70年が経ちました。わたしたちは主権者としての個人になったでしょうか。
わたしはいろいろ悩んできましたが、85歳の現在、そうした個人になれていません。わたしはわたし以外の何者でもない、当たり前だというわけには、なかなかゆかないのです。キリスト教を信じなさいと言われて、はいというわけにはゆきません。憲法に書いてあるのだからその通りにすればいいだろう、というわけにもゆきません。
信念とは、身につくというか、無意識にそのように考え行動するということです。常識でもあります。でも常識となると、周りの人もそのように考えているということですから、そんなこと常識だよと言い張っても、周りの人からそんなことないと言われると、非常識ということになってしまいます。
そんなこんなで、わたしは自立(自律)した個人になることをあきらめかけています。人格のこともありますが、何よりも神は人に自由のみを与えたということも身についていないからです。自由は自律を伴わなければ、他の人と暮らしてゆくことはできません。やはり、あなたのあなたとしてのわたしになっていきそうです。