丸山真男という高名な政治思想学者がいました。日本の戦後民主主義の広まりに指導的な役割を果たしたといわれます。1996年に82歳で亡くなりました。1972年に、日本人の古代からの通奏低音は、〈つぎつぎとなりゆくいきほい〉だという、日本人のずっと続く思考パターンを発表しました。通奏低音というのは、音楽用語ですが、一般には、ずっと影響を及ぼし続ける、表面にあらわれないだいじなこと、という意味です。
私にとって、丸山真男は、認めることのできない人でした。というか、東大法学部教授会が許せなくて、丸山真男はその教授会の著名な教授だったからです。どうして許せないかというと、無実の学生を退学処分にした医学部の決定を認めたからです。そして、法学部をはじめとする、十学部の教授会からなる評議会がその処分を承認しました。東大では先任学部というのがあって、法学部と医学部がそれにあたるのです。法学部と医学部は他の学部より偉いのです。
最近になって、と言っても、私は70歳を過ぎていましたが、丸山真男がえん罪をなぜ認めたのか、ようやくわかってきたような気になりました。それは〈つぎつぎとなりゆくいきほい〉は、丸山真男自身にも当てはまるのだと思い付いたからです。〈いきほい〉は、その場を支配する趨勢です。それに抗することはその場にいる者にとってはたいへん勇気のいることです。〈なりゆき〉の趨勢には、そもそも自分も関わっているのです。そうなるとよけい反対できない。でも、やってもいないのに、やったとされて罰を受ける、小学生にもひどいということがわかります。
丸山真男のような偉い学者でも、えん罪はいろんなことが絡まり合った成り行きの結果であって、その勢いに抗することは一人の身として出来なかったということです。丸山真男は、民主主義と個人を説いてきた旗手です。でもお里が知れるというか、いざ正念場になると、その場の勢いに抗することのできない日本人だったのです。
私は丸山真男の〈つぎつぎとなりゆくいきほい〉に出会って、あゝ、日本人をよく言い当てていると思いました。そしてそこから、日本人は「消極的和」の持ち主だということを引きだし、究極的に、終わりのない世界での、〈いのち〉に発する〈二者性〉という考えにたどり着きました。生きものは〈一〉では生きられない、最小の単位は〈二〉ではないか、人も一人では生きられず、〈あいだ〉を必要とします。〈あいだ〉は関係であり、場です。人は人間なのです。〈二者性〉から〈一者性〉が出てきます。〈一者性〉は個人を生み出します。個人は終わりがある閉じた世界の人で、〈積極的和〉の持ち主であり、絶えざる抗争・戦争がついてまわります。
少しもどって、東大法学部が事実上防壁となった、1968年に起きた医学部のえん罪事件のことを述べます。私たちにとって、この事件はたいへんなショックでした。私たちとは、少なくともその当時東京大学に居た、学生や教師たちや職員です。私は新米の助手でした。今は助教と言います。助手は学生でもなく職員でもなく、教員でもありません。いわば教員の候補生といったところです。
えん罪事件とは、そのころ続いていた、医学部の無給のインターンの処遇問題にかかわって、医学部学生が医学部助手をとりかこんでつるし上げたことで、学生数十人が退学処分を受け、そのなかに現場に居なかった学生が一人含まれていた、という事件です。その学生は九州に行っていたのです。医学部の講師が九州まで行ってそのことを確かめました。
しかし医学部教授会は、処分を強行し、法学部を筆頭とする全学評議会が承認しました。 このずさんな誤認処分に、医学部の学生が安田講堂を占拠して抗議しました。安田講堂は時計台と呼ばれ、権威ある東京大学のシンボルでした。そして、高名な経済学者である大河内総長は、機動隊を導入して学生を排除したのです。1968年6月のことでした。この大学側の強行措置に対して、全十学部の学生自治会が次々に無期限ストライキに入り、大学機能はストップしました。前代未聞の事態です。
そうなった一番の原因は機動隊の導入でした。2番目はというと、えん罪であることが明らかな処分を法学部が認めたことだ、と思います。冒頭に名前をあげた丸山真男をはじめ、錚々たる学者がいる法学部がなぜ無実の者を有罪とする処分を認めるのか、学生の素朴な怒りと教授たちに対する不信が爆発したのは故(ゆえ)のあることでした。
全学部の学生ストライキを機に、全学共闘会議が結成され、いわゆる東大闘争が始まりました。まったく無力な助手も立ち上がり、新米助手の私も、その一人に加わりました。そして「学生不在の大学」という長文の声明文を書きました。