茶碗が割れた。わたしが割ったのだ。―ごめんなさい。弁償するから勘弁してください。それはどうも。―一件落着、以後こういう不注意なことはしないように気を付けよう。
いつもこのように、ことが収まるとは限りません。割れた茶碗がお金に替えられない思い出の品だったり、自分が払えそうもない高価なものだったらどうするか、いろんなケースが考えられます。そして、そもそも、わたしが割ったと言っているのに、どうして茶碗が割れた、と変なことを口走ったのだろう。
あっ、ヤバイ、ガラスがわれちゃった!と子どもが叫びます。どうして、ガラスをわっちゃったと言わないのでしょうか。これも咄嗟に出た言葉で、責任逃れでなく、事実を言ったつもりなのです。今日は晴れたとか、地震が起きた、などは誰がしたとか、何にされたとかいう言い方はありません。全てを創造する神を想定した場合、神が雨を降らしたと言いそうですが、特別の大雨や大洪水を除いて、ふつうの雨に対しては自然に起きると見なしています。朝が来た、夜になったなども自然の摂理です。
自然(しぜん)は西欧のネイチャーの訳語です。でも自然は〈じねん〉と言われてきました。〈じねん〉は、おのずからしかりという意味です。意図しないでそうなっているということです。意図しないとなると、神や人から離れた事態です。でも日照りに対して雨は慈雨になります。降りすぎると災厄になります。恵みも災厄も人の暮らしが立ちゆくかどうかから出てくる人の思いです。そして人は祈ります。極端なことが起こらないように、平穏無事であるように祈るのです。何に対して祈るのでしょうか。〈じねん〉に対して祈るわけにはゆきません。具体的な雨雪や雲や風、あるいは山川草木や岩などが祈りの対象です。
天は上という意味ですが、上の上でその上はありません。自然は天の下で、天は自然を含むということを強調するときは天然と言います。西欧の絶対神で一つ神を、私たちは天といったり天主といったりします。明治時代は多くの西欧語を日本語に訳す必要がありました。福沢諭吉は「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらずと云えり」と言いました。「云えり」は西欧ではそう言っているということです。西欧では人は生まれながらにして平等であるという考えが起こって、それは自然権に基づくとしました。
自然権とは、わたしにはよく理解できず、長らく頭をひねっていました。西欧の自然は神が人より先に創り、人にギフトとして与えたものです。ただギフトは管理責任がくっついています。自然はむやみに冒されない権利、自然権を持っているのです。天については天権とは言いません。それは天は神と同じように思われ、そして神権とは言わないからです。天や神は権利を授ける立場にあります。
人がまだ、制度をもつ、国家をはじめとする枠組みを持たなかったころ、人は自然人でした。そしてのちに、人は自然権をもっていたとみなされました。当然ながら、生まれてくる子どもは、生まれながらにして自然権をもっていることになりました。人が集団をつくり、集団を維持する決まりや約束が生まれて、さらに必要に迫られて、国という、それまでより大きな集団をつくり出すと、人々と国を束ねる担当者たちとは、直接の繋がりがなくなります。
そうなると、人々は虐げられたり、物とみなされて国の維持のために消耗品として利用されたりすることが起こります。そういう事態にならないように、人々は冒されることのない権利・人権を持っていること、その根は人は自然権を生まれながらに持っていること、そのことを国を束ねる人たちが忘れないような手立てが必要になります。それが憲法という確認と遵守の文書です。遵守するのは国を運営する人たちです。
わたしは1967年6月に国家公務員の末端になりました。東大教養学部の助手になったのです。学部長によばれて、日本国憲法の遵守を誓いますかと言われて、はいと答えました。どれほどの重さと理解をもって答えたか、おぼつかないという他ありません。
わたしはのちに、〈ロックの成人式の誓い〉をつくって、その誓いを成人になる若者に話すようになりました。それは「今の政府を認めますか。はい、か、いいえで答えて下さい。はいと答えたら、あなたはいまの政府を絶えず整備するように努めなければなりません。いいえと答えたら、あなたは今の政府を替えるように努める義務があります」というものです。ジョン・ロックの『市民政府論』に基づくものです。なんだか息がつまりそうな成人のありかたですが、選挙権は投票できる、投票するに終わらないのです。不断の努力が求められているのです。