民主主義は人々の弛まぬ努力によって成り立つということを話してきました。民主主義とは人々の自由と平等によって成り立っています。人々は自然権に基づいて、生まれながらにして、自由と平等の権利を持っているのです。その考えは何時ごろからはっきりして来たのでしょうか。大きな結節点は、今から250年くらい前のフランス革命です。フランス革命のモットーは〈自由・平等・友愛〉でした。革命記念日の7月14日はパリ祭として日本でも親しまれています。
友愛は日本では明治維新のころ、慈善の意味も加えて博愛と訳されました。博愛というと、慈善とか、かわいそうだという思いが出てきて、なにか上から目線のような気がします。広く万人を愛する心という意味なのですが、そうすると、万人を愛するなんて神様しかできないんじゃないかと茶々を入れたくなります。友愛の方がお互いにという意味が出ていてわかるような気がするのですが、〈愛〉が日本人には、というより私にとって、いまいちストンと心に落ちてきません。
可愛いとか愛(いと)しいはわかるのです。でも、〈わたしはあなたを愛します〉は使えません。日本のドラマでは使われることがありますが、違和感があります。従軍看護婦の若尾文子が軍医の芦田伸介に〈好きです〉という場面があります。「赤い天使」という、有馬頼義原作で増村保造監督、1966年の映画です。二人は画面の端と端に立って、若尾文子がソッポを向いて〈好きです〉とつぶやくのです。
オギュスタン・ベルクは日本の風土を研究して、日本人の通じ合いを通態という言葉で表しました。1969年に来日して12年間滞在しました。日本に来る前、日本語の勉強を兼ねて「赤い天使」を見ました、そして〈好きです〉という場面を、どうして顔と顔、目と目を合わせて〈私はあなたを愛します〉と言わないのかと憤慨したそうです。おそらく日本人理解の大きな鍵となったと思われます。
自由と平等も、明治維新のころは硬い言葉だったと思います。明治憲法では、日本は大日本帝国となり、万世一系の、神聖にして不可侵の天皇が統治すると決められました。国民の財産権や宗教の自由は認められ、意見や集会の自由は法律の枠でという制限付きで制定されました。立憲制の近代国家の基礎がつくられたのですが、天皇は日本の統治者で、天皇の名において憲法がつくられ、そして初めての改正も天皇の名においてなされました。 それが1947年実施の国民主権の日本国憲法です。わたしは11歳でした。国民が主人公とは、何をもって決めたのだろう。そしてそのことを天皇陛下が決めたというのです。〈ぎょめいぎょじ〉と大人に言われても、ギョギョという音しか響いて来なかったことを思います。
昭和20年から学校は機能していませんでした。そして23年の二学期から私は喘息のため3年間学校を休んでしまいました。家では本を読むしかなかったのですが、昭和十年代の主婦の友を眺めていたのが、記憶に残っています。民主主義については、子どものころ教えられるのが、大事だろうと思うのですが、そこのところが欠けているようで、心もとない感じがします。
父が1948年に亡くなったこともあって、家父長制の実態への反発や抵抗もなく、青年期からの知識だけでは、民主主義は身についたとは、とうてい言えません。じゃあ、どうすれば身につくというのか、問われると、やはり身に沁む屈辱や差別や不利の体験をしないと無理なのかもしれない、と思ったりします。私の体験では、東大に入ったときに、急に梯子を外されたような気がして、これが逆差別というものかと感じたことがあり、差別をなくすには、知識だけでなく、なんらかの体験が必要と思い始めた、ということがあります。
前にもどりますが、私は民主主義が自分の身についているとは思えません。挙国一致の言論思想の極端な統制に比べれば、それはいいに決まっています。でも、子どもからすれば大人たちは親も先生もふくめて、大東亜戦争に賛成していたと思うのです。ですから戦争に比べれば民主主義がいいというよりは、戦争だけはいやだという気持ちで、現憲法で言えば、第九条の戦争放棄が抜きんでて大事だと思うのです。
では平和主義なのか、といわれると困ります。いさかいや暴力のない社会は考えられません。何十人という人を殺傷するのも、境遇や精神的な混乱によるものかも知れず、戦争とはまず縁遠い出来事です。戦争が恐ろしいのは、国家を守るための正義の行動だとすることで、人を殺すことが多ければ多い程、偉いとされて、勲章を胸にいっぱい付けたりすることです。自衛のための戦争は言い訳になりません。どれだけ先に攻撃をするかに意をそそぐのは、戦争に他なりません。