返信66:わからない(最首悟、2023/12/13)

序列をこえた社会に向けて

わからないという思いには、いつもモヤモヤとした気持ちが付きまといます。口に出していうときは、とりあえずの挨拶のつもりなのですが、言われたことへの拒否という感じ出てしまうので、躊躇してしまいます。それで、〈さあ〉とか〈はあ?〉とか言って時間稼ぎをします。前にも書いたと思うのですが、子どもたちの言う〈別にぃ〉は、言い方によっては絶妙だと思います。相手はふつう母親です。変わりばえのしない問いや心配に対して、気遣いはわかった、だけど心配してくれるな、大丈夫だよ、というメッセージになっています。

小学校の授業で、先生が、「わかりましたか」というと、生徒たちは「はーい」と答えます。それで先生は次へと進みます。一種のマナーです。もし、「分かりましたか」と投げかけて。「わかんなーい」と叫ぶ生徒がいたら、先生はどうするのでしょうか。カリキュラム進行案は、前もって決まっていますから、対応するにしても、多くの時間は割けません。「あとで職員室にいらっしゃいい」とか、なんとか言って切り抜けるほかありません。私の孫の男の子が「わからない」をやってしまったことは、前に書いたかもしれません。孫はその後、常識を身につけたらしく、「わかかんない」とは言わなくなったそうです。

ちょっと脱線しましたが、私たちはいろんな場面で、わからないとは言いづらいことが多いと思います。でも、わかったふりをすると、その場はよくても、後で大ごとになったりします。それで、相手を傷つけず、間をとるテクニックを身につけてゆきます。率直な言い方を止めて、オブラートに包むというか、ぼかす言い方を身につけるのです。深謀遠慮というと、大げさですが、いろんな面で。私はあやふやだということを卑下ではなく、示す必要があります。

「みざる・きかざる・いわざる」は、今の社会では、無理ですが、「もの言えば唇寒し」は、実感として残っています。忖度は官僚の保身術として、この十年ばかり取り上げられましたが、〈空気を読む〉は、私たちの日常にとって必須の能力です。私たちの日常とは、私たちの立ち位置に深く関係しています。自分の立ち位置について無頓着な人は、〈空気を読む〉必要はありません。〈空気を読む〉ことがなんらかの足かせだとしたら、そういう人たちは、私たちよりも自由です。

能力のあるなしで、人を判断をすることは、できる・できないがその基準になっています。でも、自由か否かは、できる・できないの範囲に収めることはできません。自由でありたいという思いは、能力以前の本能のレベルの問題です。とらわれたくない、枷をはめられたくない、檻に入れられたくない。子どものいじめに限らず、大人のいじめでも、いじめはふつうに〈できない〉ことへのいら立ちから始まります。ところが、いじめられる方が、できる・できないではなく、自由かどうかの問題として受け止めると、対応がちぐはぐになって、いじめる方は、よけいいらだってしまう。そして、いじめはエスカレートしてゆく、ということがありはしないか、と思うのです。

能力は能率を生み出します。能率は、「時は金なり」を下敷きにしています。仕事は投じるエネルギーと、かかる時間の積で表します。仕事=エネルギー×時間。それで、時間を節約しようとすると、エネルギーを増やさねばなりません。同じ仕事でも、効率を高めることに優先すると、投じるエネルギーを少なくしようとする努力が必要になります。結果として時間がかかるようになります。時間がかかるとは、悠長なのんびりした仕事ぶりになります。

今の社会は日本も含めて多くの国が資本主義社会です。そのモットーは、働かざるも者食うべからず、と、時は金なり、です。オバマ大統領が出る前、アメリカは典型的な資本主義国と言われていました。能率優先の国です。アメリカのの建国は、1784年で、原住民の弾圧と黒人奴隷制度の存続が特徴的です。人種差別の撤廃、黒人の公民権要求の運動が大きなうねりとなったのは、1960年代です。

1963年のワシントンで行われた参加者20万人以上という、「リンカーン奴隷解放宣言100年記念大集会」は、画期的な出来事でした。その集会でのキング牧師の「私には夢がある」という演説は有名になりました。その一節を書き写します。

「私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である」。

キング牧師は1968年凶弾に斃れました。

話がずれました。分からないという思いについて続けます。