あなたと言えば、「山のあなたの空遠く幸いすむと人はいう」というような言葉が浮かんできますが、方角は此方、其方、彼方と言います。この方角を転用した人称代名詞に、こちら、こちらさんとか、そなたとか、あなたとかがあります。あなたは二人称ですが、彼方が下地にあって、すこし距離があります。自分と距離がある二人称とは、自分と同等ではないことを意味し、自分より偉いとか目上であることから、貴方、貴女と言います。貴男はめったに使いません。
〈あんた〉は男が使う場合、相手を見下したり、文句や叱りつけたりするときに使われなます。女性の場合は、主に家の中で亭主を詰問する場合に使われます。また親密さを表したり、何かを要求するときなどにも使われます。貴方という意味合いのでの〈あなた〉は、会話の場合ふつう使いません。文章とか頭の中で考えるときに使います。
〈あなたのあなたとしての私〉。これは森有正の,1972年の北星学園大学の開学10周年の「日本人の心」という記念講演のなかの言葉です。森有正は明治の初代文部大臣、森有礼の孫です。第二次世界大戦のあと、海外留学の第一陣として、フランスに留学し、そのまま長く留まり、日本に帰国しようとした矢先、1976年に亡くなりました。1968年に『遥かなノートル・ダム』という本で芸術選奨文部大臣賞を受賞し、日本に一時的に帰国して、講演・対談や短期の集中講義などを行いました。〈あなたのあなた〉はその時の講演です。その一節を本から引用してみます。
日本語というのがどういう言葉であるか と言いますと、形式的な学校の文法などの 問題ではではなくて、根本的に言いますと、二人称しかないのです。…例えば日本語は 必ず「私」ということを言っている場合でも、その「私」というのは端的に「私」なのではなく、「あなた」にとっての「あなた」なのです。「あなた」にとっての「あなた」である自分は「私」であるということを考えて「私」は発言するのです。(「土の器に」1976、151~152p)
私は〈あなた〉を通しての私だとすると、私の考えや経験も〈あなた〉に大きく左右されることになります。そして〈あなた〉は何人もいるわけですから、私の考えは幾つもあることになって、首尾一貫しないことになったり、ときには正反対の意見になったりします。それで日本人は嘘つきだとか、バックボーンがないと言われるのだと森有正は言います。ご都合主義とか日和見主義とか風見鶏とか外国から見られてしまうゆえんです。
その場の空気を乱したくない、なるべく目立ちたくない、というのは、日本人にしみついた性質です。それを〈あなたのあなたとしての私〉と言い表したことに、その通りだと思いました。ずいぶん長く、そう思っていたのですが、あるとき、〈あなたのあなた〉の二番目の〈あなた〉も一番目と同じように敬語だと気づきました。二番目の〈あなた〉は一番目の〈あなた〉と違って単なる二人称だと思っていたのです。
つまり、私が呼びかける、あるいは頭で思う〈あなた〉は敬語で、そのあなたが私に向かって呼びかける〈あなた〉は、単なる二人称で敬語ではないと思っていたのです。それがあるとき、〈あなた〉は基本的に敬語であって発話者の意図とは関係なく〈貴方〉なのだと思ったのです。それで、〈あなたのあなたとしての私〉は、私が相手を、敬意を表してしまう〈あなた〉と呼ぶのと同じく、相手も私を、敬意を表してしまう〈あなた〉と呼ぶ、その限り、私とあなたは同じ平面上にいるというか、対等なのだ、と思うようになったのです。
本心はどうであろうと、お互いに一目おいた人として呼び合う、ということは、お互いがいるその場を荒立てたくないという気持ちがはたらいていることを示しています。気を回すとか、空気を読むとか、忖度するといいます。このような、自分の気持ちや本心を曲げてでも、その場の雰囲気を乱したくないという日本人の心性を、消極的和と名付けたいと思います。積極的に和を求めて戦うということはしないのです。
昭和20年(1945)は明治維新(1868)から77年後です。このほぼ80年間に自衛戦争から侵略戦争へと戦争が続きました。日本人は好戦的なのでしょうか。いいえそうとは言えません。司馬遼太郎が言うように、日本人はお祭り好きで、一晩興奮して次の日は冷める気質なのです。熱しやすく冷めやすいのです。そして、根本は出来るなら闘いたくない、〈あなたのあなた〉であり、〈消極的和〉の持ち主なのです。