人間って言い方、おかしくない? と思うようになったのは、私が70歳の頃です。〈二者性〉を活字にしたのは1980年です。人間って言い方、おかしくないですか、とまわりに聞き出したのですが、べつに、という答えが返ってくるだけでした。私もそれまで、そんなことを考えもしなかったのですから、当然のことです。
人間とは、人の住む場所の意味です。〈人間到たるところ青山あり〉といいます。人間の住むところ、かならず墓地があるという意味です。青山墓地を思い出してしまいます。人間は人間でもあるのですが、人の意味になるは、どうやら江戸時代のようです。明治になると、翻訳がさかんになりますが、翻訳本の題名に、人間を使ったものが多くなります。明治時代の翻訳はさぞ大変だったろうと思われます。
人間とは、人の住む場所である。場所とか場というと、〈居る〉ということ出てきます。『星子が居る』(1998)という本を書き、ましたが、この〈居る〉という言葉も欠かせない言葉で、まことに重宝なことばです。ところが西欧にはこの言葉に当たる単語がないそうで、ハイデガーという高名な哲学者は、晩年、〈居る〉という言葉を知っていたら、苦労して〈世界内存在〉というよう言葉を使わなくてよかったと、述懐したそうです。
メイヤロフの『ケアの本質』(ゆみる出版、1987)では、〈居る〉をbe in-placeとして
います。be in placeを、inとplaceをハイフンでつないだのです。なんだか苦労しているような感じです。そう言えば〈甘え〉という言い方も欧米にはないそうです。それで土居健郎の『甘えの構造』(弘文堂、2002)は、大きな反響をよびました。もともとの評判を呼んだ本は、ルース・ベネディクトの『菊と刀 日本文化の型』(社会思想社、1972)でした。
この本は、アメリカが、1945年、日本に進駐するにあたって、占領政策に資するために書かれたものです。私が印象に残ったものは、第12章の「子供は学ぶ」でした。特に日本人の男の子についてでした。日本の男の子は、子どものころを一番幸せで、大人になるとほんとんど自由がなくなってしまうというのです。それに比べると欧米の男の子は厳しく育てられるが、大人になると100%の自由を得るというのです。
アメリカでは、子どもは、生まれると、一人で部屋に寝かされます。決まった時間に乳が与えられます。日本のように川の字になって寝て、好きな時にお乳を飲むことができるのとは大違いです。昼間はおんぶに抱っこです。とくに男の子は甘やかされて育てられます。日本流の子育ては、戦後、ずいぶん変わりましたが、それでも、子どもの〈甘え〉はゼロになったとは、誰も思わないでしょう。
甘えは、相手に寄っかりながら自分の思いを通そうとするものです。そのさい、相手が可愛いと思ってくれなければなりません。大人でも〈愛い奴〉と言いますが、愛嬌があることです。女は愛嬌、男は度胸といいますが、逆に女は度胸、男は愛嬌でもあるのです。愛想がいいといいます。これはお世辞につながる言葉で、その場限りの、皮相なものの言い方です。
そういえば、〈いなせな〉という言葉があります。〈いなせ〉とは、江戸時代の江戸における美意識(美的観念)のひとつで、若い男性を形容する言葉です。男気があり粋であり、心意気のあること。また、その容姿やそういう気風の若者を指すこともある、と字引に出ています。〈いなせ〉とは、鯔背と書き、〈いな〉は魚の鯔の子どもで、鯔は出世して〈トド〉になります。〈とどのつまり〉といいます。
話がずれてきてしまいましたが、人間について書こうとしたのです、それが日本と西欧やアメリカの違いについてになってしまいました。人間という言い方は、ずばり人を指していないことから、あれこれと思いが広がってしまいます。西欧でも話は簡単なのではないと思いますが、やはり〈一神〉の存在が大きいと思います。私たちは、〈八百万の神〉と言って、人間っぽい神さまもいるし、山川草木にも石にも神々が宿っています。
どれだけ本気で信じているかと言われると、困ってしまうのですが、少なくとも、回りの人達が信じているのを邪魔しようとは思っていません。反面、オーム真理教や統一教会のように、財産を失くすことが義務であるかのような、教えとなると、個人の宗教を超えてしまうような危険が出てきて、宗教の恐ろしさを感じさせます。次回、人間について続けようと思います。