人間は関係的存在です。存在というと、そもそも関係なしに〈在るもの〉ということを思い浮かべてしまいますが、関係のない〈存在〉というのは、あるはずがありません。でも独立とか、自立とかというと一人を思い浮かべます。その場合、依存とか従属とか隷属ではない状態を思っているのです。でもその場合、〈丸ごと〉という状態は考えていないと思います。奴隷という売り買いされる人の場合も、奴隷本人は、自分は売り買いされる物だとは思っていないでしょう。
自分のことを思うと、まず生きていて、その点では植物や動物と同じだが、植物とは違い動くので、動物だと思っています。19世紀のダーウィンの「種の起源」を思い浮かべます。出版するまで30年くらい温めたというか、躊躇したというか、どんなに衝撃的な本か、ダーウィンにはよくよくわかっていた本です。
人間という種は猿から生まれたという、衝撃的な本で、1859年に出版されました。私たち日本人は猿から生まれたと聞いても、それほどのショックは受けなかったのですが、欧米ではいまでも受け入れない人々がいます。21世紀になってもアメリカでは世論調査で過半数の人々が〈ヒトからサルから〉を信じていません。
ダーウィンの進化論のかなめは適者生存です。環境に適応できる、あるいは適応できたものが生き残るということです。ヒトもまた例外ではないということを、わたしたちはおおまかにそうだろうなと思っています。種の起源で思い出すことは、新種の誕生のことです。種はどうやってはじまるのだろう。一個体からか、それとも複数なのか。雄雌の区別がある種では、少なくとも2個体が出現するのか、ここのところはあいまいで、言及することがはばかれるような問題だったのですが、今西錦司という登山家であり、サルの研究を切り開いたがユニークな京大の学者が、「種はワッと出現するのだ」と、言いました。ワッとはいいなと思いました。
さて、一神教と結びついて、ヒトはアダムとイヴからという思いは、西欧ではなかなか捨てきれないだろうと思います。アダムは土という意味です。そこから人を土の器と呼んだりします。
日本の神話では、人は葦からとされています。人の前身は草だったのです。草は土によって育ちます。アダムは土から生まれ、続いて万物が創造されるのですが、日本ではすでに生きものがいて、その一つの植物の葦から人が生まれたのです。日本人の由来は植物だというと、性質としての植物性ということを思います。
日本人は消極的和の持ち主だと書いたことがありますが、植物性というと、概して自ら動かないことを思い浮かべます。私たちは率先して何かをすることは苦手です。小学校の先生たちの教育研究集会で、生徒の積極性が取り上げられているときに、会場の前は空いているという体験をしたことがあります。前の方に座ると、指されそうで心配なのです。積極性、能動性、主体性は民主主義の根幹ですが、自分を振り返ると、内心忸怩たるものがあります。なるべくなら目立ちたくないのです。
成人は18歳とするとしたのは、2年前のことですが、飲酒は20歳になってからは変わりませんでした。前にも述べたでしょうか、ジョン・ロックの『市民政府論』から、ロックの成人式の誓いというようものを、まとめると、
次の問いにはい、いいえのどちらかで答えなさい。
あなたは今の政府を認めますか。はい、いいえで答えなさい。
はいと答えたら、あなたは今の政府が続くように日々努めねばなりません。
いいえと答えたら今の政府を打倒するように日々努める義務があります。
日本では、大人の義務というと、労働、納税、教育の三大義務が定められています。義務教育は、小学校6年、中学校3年と定められています。高校はオプションですが、実際は義務教育のようになって6・3・3制と呼ばれたりします。
私は小学校を三年も休んだので、高校を卒業したときは21歳でした。小学校は三つ年下の弟と一緒のクラスに入れてもらったので、〈あんちゃん〉と言われていましたが、友達はいませんでした。大学に行ったら友達ができるだろうと思っていました。小・中学校では、同年というのがいたく大事なのです。東京大学に一浪して入って、2年目に駒場寮の中寮の結核予後の部屋に入りました。昭和10年生まれの一つ年上の、やはり喘息持ちの茅野さんに出会いました。茅野さんは1960年亡くなりました。茅野さんについては、また書きます。
