小林敏志 二者性と介護と子育てと夫婦と

未分類

執筆者:小林敏志さん(宅老所はいこんち)
寄稿日:2022年2月11日
形式:テキストデータ


栃木県で高齢者介護の小規模デイサービスを運営している小林と申します。

いつも最首塾のYouTubeを見させて頂いてます。最首塾にはリアルで1回しか参加していないので、本当は書く立場ではないのですが、理学療法士の三好春樹さんに寄稿をお願いしていたら三好さんから逆に薦められてしまい、なぜか僕も書くことになりました。書くことになりましたと書いた理由は、書きたいでも書かされたでもないからです。

能動態ではなく受動態とも違う。中動態という概念。

最首さんのTwitterでも紹介されていた國分功一郎さんの「中動態の世界」という本を読んで僕はこの中動態という言葉を知り、以前に比べてだいぶ生きやすくなりました。

やりたいわけじゃないけどやりたくないわけでもない。

そんな態が僕を突き動かしています。

中動態は介護にも通じます。介護職は基本的に受け身です。介護する人がいて介護をお願いされて初めて仕事としての介護が始まります。かといって介護職は全てが受け身的なつまらない仕事かと言われるとそれもまた違います。

三好春樹さんは、自己決定より共同決定という言葉を作りました。

介護職は、お年寄りが「死にたい」と言ったからって「じゃあ死にましょうか?」とはなりません。「死にたい」というお年寄りの言葉を「死にたいような今の生活が辛い」と捉えなおし、そこに「死んでほしくない」介護職が現れて、一緒に「生活」を作っていく。

あれかこれかじゃなくて、あれもこれも聞いたうえで、どうするか決めていくスタイルの介護は、大変で面倒くさいですけど、とてもおもしろいのです。

例えば、コロナワクチンを受けるお年寄りは、ほとんど自分の為ではなく家族の為にうちます。本人はうちたくなくても家族が喜ぶならうつという態度は、中動態だと思います。「打ちたい」と書かされる同意書の中身には、そういった思いが含まれているので決して能動態ではないと思います。

あるおばあさんの話です。コロナワクチン打った日に腕が凄く腫れてしまい、副反応じゃないかと疑い、次の日かかりつけ医に診察してもらいました。診断結果は、虫刺されでした笑ワクチンを打った日に、草取りしてたみたいです。副反応が理由ではないのにそのおばあさんは2回目のワクチンを打つのをやめました。打つ方が良いか打たない方が良いかは、正直僕らにはわかりません。でも、打つ打たないよりもその過程こそが一人一人の意志を作っていると考えます。そんなお年寄り達と関わっているとおもしろいし、閉塞感漂う今の日本社会の中で介護現場のやり取りがなんだか僕をホッとさせてくれます。

これは、最首悟さんがおっしゃっていた「ケアするつもりが実はケアされている」感覚なのかなと思います。介護する介護されるという切れた関係ではなくどちらも繋がっている感覚。

この原稿を書いている今も、隣りには生後7か月の三男が寝ています。ミルクを飲んでやっと寝たのでその合間にこの原稿を書いています。僕は、時間を作って文章を書くよりもこういう隙間時間に書く方が書きやすいです。本も隙間時間の方が読みやすいです。たぶん誰かのせいや何かのせいにしながら動くほうが、責任を背負いすぎなくて安心して気楽に行えるからなのかもしれません。誰かのせいや何かのせいにするてことは、誰かのおかげや何かのおかげってことでもありますもんね。

僕は、最首さんのお話しを聞いたり本を読んだりする中で、星子さんのお話しや政治的な話も好きなのですが、一番好きなのは、時々出てくる奥さんと最首さんとのやりとりや夫婦についての話です。例えばこの箇所なんかとても共感して安心したり勇気づけられます。

「こんな時だから希望は胸に高鳴ってくる」最首悟著 167頁
我が家は大もとのところで専業主婦が取り仕切っています。その表れの一つが、お願いします、と声をかけられたら待ったなしは大げさですが、文句なく父親が応じることです。手が離せないとか文章を書いているから、というような言い訳は一切許されません。〜
専業主婦の矜持が崩れる、あるいは崩すと家庭は不安定になり社会はぎすぎすしてしまいます。

せっかくなので僕も奥さんとの話を書いてみます。

僕は文章を書く時は奥さんのことを尊敬と冷やかしと照れくささを込めてかみさん(神さん)と書いています。

仕事の依頼があると必ず「カミさんに相談してから折り返します」とお答えしています。仕事相手からしたら「自分のことぐらい自分で決められないのか」と思われるかもしれませんが、そんなこと言われても僕も困ってしまいます。

僕の生活は、かみさんに依存していますし、デイサービス事業の運営もかみさんに大部分を依存しています。僕は社長ですが家ではサブです。家庭のことを仕事に持ち込むなと言われても、家庭と仕事はそう簡単に分けることは出来ません。公私混沌が人間本来の姿ではないでしょうか。仕事とプライベートを分けるっていいますが僕には無理です。

あと、「自分のことは自分で決められないのか」というに無言の圧力に対しても、「かみさんに聞くという態度を自分で決めている」とも言えます。

だから、そういうこと言う人とはなるべく一緒に仕事しないようにしています。笑

自分はないというか、カミさんに合わせていることで自分が立ち上がってってくるそんな感覚です。男前のカミさんと女々しい旦那で夫婦やってます。

昨日はめずらしくカミさんと喧嘩しました。理由は、小学3年生の二男が不登校になり学校を1か月近く休んでいて教育方針の違いからです。学校に行ってほしい母親と学校行かなくてもいい父親。その間にいる二男。僕ら夫婦はお互いの事ではほとんどケンカしません。なぜ昨日は喧嘩してしまったのかずっと考えていたのですが、もしかしたら息子との二者性が原因だったからではないかと気づきました。夫婦のお互いの事なら喧嘩にはなりませんが、息子とのそれぞれの二者性からの対話だったのでいつの間にか食い違い、荒れに荒れてしまったのだと。カミさんも僕も二男も泣きました。なぜか長男まで泣いてました。結局、最終的にどうなったかというと、次の日二男は嬉しそうに学校に行きました。

自分の為にここまでお父さんとお母さんは考えてくれているんだと感じたからかもしれません。二男は生まれた時から長男がいたのでいつもサブでした。最近は三男が生まれたのでより後回しになっていたのかもしれません。二男は、お兄ちゃんが大好きだし、生まれたばかりの弟の面倒もよく見てくれています。二人に対して不満を言ったこともありません。でもどこかで、寂しかったり悲しかったことの態度として不登校という態度で出していたのかもしれないです。だから、お父さんとお母さんが僕の為にここまで考えてくれていたことがわかって嬉しかったのかな。

まあその答えは彼にしかわからないので、僕らの都合の良い解釈親バイアスが入っているので話半分で読んでください。

来週からまた学校休むかもしれないし、それはそれでしょうがないので、その時また考えようと思います。

お年寄りの介護や子育てや夫婦も二者性という意味では全部つながっています。

あなたとわたしの二者関係から始まって今ここを夢中で過ごしています。

介護してほしくて介護されているわけではないお年寄りと介護したくて介護してるわけではない介護職が「介護」を通して繋がっていく。

子どもだって生まれたくて生まれたわけじゃないけど、この親に育てられて生きていく。子育てを通して親と子は繋がっていく。

夫婦だって同じです。「お互い好きで結婚したんだから毎日最高です。」なんて夫婦がいたとしても「けっ」って感じ。笑

もちろん現代は自由恋愛なのでお互いの好きから始まりましたけど、嫌いなところもわかったうえで、仕方なく一緒に暮らす。しょうがないもんね。お互いの性格は直らないしって、どこか諦めたうえで、それでも一緒に過ごしてきた日々や嫌いなところも含めて面倒を見たり見てもらっている「済まなさ」みないなものを共に抱えながら、お互いが依存しあって一緒に居ることが大事なんだと思っています。

西洋的な恋愛に憧れながらも僕らには日本的な夫婦や子育てや介護というものがあり、それは直線的な世界ではなく円環的にぐるぐる回っている幸せだと思います。

始めと終わりが決まっている直線的な世界観よりも始めも終わりもなくいつでも途中でいられる円環的な世界観。

最高ではなくても最低ではないという世界観が右肩上がりの世界観から離れて、穏やかな日常を作り上げているのではないでしょうか。

介護も子育ても夫婦関係もマイナスからゼロを目指す。

プラスプラスの円錐の頂点を目指す世界は息苦しいです。

そんなことを思いながら文章を書いていたら、学校から二男が帰ってきました。

いつもは「学校はどうだった?」と尋ねると「ゴミだった」と答えるのですが、今日は一体なんて答えるんだろう。

「ただいまー」
「おかえり。今日学校どうだった?」
「まあまあ」
おっ、マイナスからゼロになった。

三男も目が覚めて泣き出したので、そろそろ筆をおきたいと思います。

書き始めるのも、書き終えるのも、中動態。