前田保 最首さんのこと

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執筆者:前田保さん(NPO滝沢克己協会事務局)
寄稿日:2022年3月24日(最終版)
形式:WORDデータ(テキストデータとして掲載)


最首塾定例会が二〇〇回を迎えるとメールで連絡がありました。わたしは塾に何回か出席させていただいたことがあり、この場を借りて塾の長寿を言祝ぎたいと思います。

最首さんとはもう長いお付き合いです。最首さんと書きましたが、最首先生、最首悟と、お付き合いは三つの呼称で区別されます。最初は最首悟、次に最首先生、そして最首さんになります。

〈最首悟〉との出会いはあの時代でした。マスコミ、たしか『朝日ジャーナル』からだったと思いますが、顔写真とともに脈絡のない知識が入って来ました。東大全共闘、助手共闘、生物学者などなど。大学の建物に立て籠もって戦い、逮捕されたこともあるように読んだと思います。写真のお顔とともに凄い人、偉い人だなと思いました。当時私は二十歳の大学生でしたが、幼かったと思います。最首悟はマスコミで接する知識人のひとりだったのです。

最首悟の私への影響のひとつはそのお顔にあります。ずっと後になって最首塾で映画を観せていただきました。最首さんと故和田周さんが主演の映画だったのですが、その時の最首さんのお顔が若いときの廣松渉さんのそれとどうしても区別できず、困惑したのを覚えています。そして、私の知識人イメージがいつしか、私にはうり二つに見えるこのお二人のお顔になっていたことを意識するようになりました。もう七十前後でです。それはテレビでみる知識人の顔にまったく惹かれないことに気づいてからです。それくらい影響が強かったということです。皆さんには、若いときの最首さんのお顔をぜひ観ていただきたいと思います。俗に言えば、苦み走った色男というのでしょうが、私にはカミソリのように切れる顔に見えました。知識人を定義するお顔だと信ずるのですが、種々の経験から私は自分の形態認識に自信が持てないので、単なる認知の歪みかもしれないからです。

最首悟のあとに〈最首先生〉がきました。ずいぶん時間が経ってからです。私はたまたま和光大学で非常勤講師をはじめたのですが、ある時、和光大入口のあのスロープを上っていく最首さんを見かけたのです。私の最初の反応は「おお、実物の最首だ」だったか「リアル最首だ!」「なま最首だ!」だったか、とにかくずっと写真の中だけの人が目の前に現れたというものでした。

私は小田急線が生活路線ですが、様々な著名人に出っくわします。新宿で小室等をみ、豪徳寺でアラーキー(荒木経惟)が乗車して斜め前のドアの端に立っているのをチラチラ見ました。同じ駅で乗ってきた小沢昭一が隣に座ったこともあります。冬でした。いい服を着ていました。よっぽど声をかけようと思いましたが、やめました。柔道の鈴木桂治も隣りあったことがあります。ずっとちぢこまって厚いマンガ雑誌を読んでいました。一番の大物は作家の古井由吉でしょうか。これは千歳船橋駅でした。見上げるほど背の高い人でしたが、雑誌の顔写真を観ていたこともあり、またかれの作品を読んで圧倒された経験もありましたのですぐ判りました。その後、駅の外でもすれ違いました。かれが馬好きで馬事公苑近くに住んでいることを知ったのは後のことでした。拙宅の直ぐそばです。しかし、いずれも声をかけたことはありません。「小田急線の乗客は著名人に気づいても騒がない」と妻は言います。実際そうで、私もひそみにならったことになりました。書けばまだまだありますがいい加減にします。

しかし、そのとき、最首さんにはこちらからお声をかけ、ご挨拶しました。最首さんが和光大学で教授をされていることをはじめて知りました。しかし、出講日が違うせいか、それ以後、大学でお会いすることはありませんでした。ただ、先生が中心になって和光大で水俣展があったときに、客として最首先生を拝見したり(加藤登紀子と一緒に)、ワンボックスカーの星子さんを車椅子に乗せて押されているところを拝見したでしょうか。前後は定かではありませんが、和光大の市民講座を一年間受講したこともあります。最首先生がたしか環境哲学をかかげて講座をもたれるというので、申し込んだのでした。わたしは和光大で教職の哲学を担当していたからです。最首先生の講義スタイルを知ることにもなりました。それは私の経験したどの授業とも違っていました。毎回、様々な著作からの引用を載せたプリントを配布、それをもとに話されるのです。読書量とともに、その蓄積ぶりと整理能力に脱帽したことを覚えています。

こうして最首悟は最首先生になりましたが、いつからか、最首さんが学外で最首塾を主催されていることを知るようになり、〈最首さん〉と出会うことになりました。多少親しくお話できるようになったでしょうか。最首さんは「前田さん」と呼んで下さるようになりました。それはとても優しい響きです。

と、こう思いだしていくときりがないようですので、ちょっと仕切り直します。以下、科学者としての最首さん、求道者としての最首さん、詩人としての最首さん、親としての最首さんと、四題噺にしてまとめたいと思います。

場所は思い出せませんが、最首さんがこんな話をされたことがありました。水俣病の原因をめぐる話だったと思います。原因が一つなら検証できる、二つになるとかなり難しい、三つになるとこれはもう無理だろう。そんな話でした。最後のところで最首さんの声色が変ったことを覚えています。話の内容よりそのときの声のトーンを思い出すのです。しかし、後年、たとえば超伝導物質やiPS細胞の発見の現場をテレビなどで見るにつれ、最首さんの仰っていたことがわかってきました。原因物質を増やすことの罪深さも同時に。

じつは私は昨年『西田、田邊と瀧澤』(七月堂)という本を上梓したのですが、足かけ四年かかりました。しかし、そのうち通算すると一年半以上は書けない状態でした。表題の三人それぞれを紹介しながら二人ごとの関係から三人の関係へと展開することが難しくて袋小路に入りました。その時よみがえってきたのが最首さんのあのお話しだったのです。それほど私の無意識に食い込んでいたということになります。絶望的な気持ちになりました。原因さがしであろうと、物語を首尾よく構成することであろうと、三つの要素を組み合わせて満足な結果を得ることはほとんど無理だ、そう最首さんが言われていたのに、自分はそこに足を踏み入れてしまった。完成をあきらめなければならないのか、瀬戸際に立たされ、空白の時間がやってきたのです。曲がりなりにも上梓に漕ぎつけられたのは僥倖にすぎなかったかと思います。顔の呪縛?につぐ科学者最首悟の言葉の力でした。

最首さんは求道者の一面をお持ちです。あえてこの言葉を使うことで最首さんの一面を浮き立たせることが出来るかと思います。いつかの最首塾で「キリスト教への入信」を考えていらっしゃるような話をされました。その事情や宗教との関わりについては私はほとんど知りません。ただ、最首さんは学生時代の先輩か恩師にクリスチャンの立派な方がいらしたとか、勤務されたことのある恵泉女学園大学がキリスト教系の大学だったとか、そんなことを仰っていました。宗教への関心は若いときからだったようです。というのも、全共闘時代に滝沢克己に会いに行っているからです。滝沢は当時九大教授で福岡在でしたから、東京からわざわざ出向いたことになります。これは凄いことです。実際、最首さんは滝沢亡き後も折にふれて滝沢について書いています。何を書いているかというと、滝沢関連で私が最初に触れた最首さんの文章「孤立有縁ともいうべき事態」(『滝沢克己 人と思想』所収、新教出版社)の趣旨と同じことです。それを最首さんが育てたお弟子さんの丹波博紀さんの最近の論考「〝原点〟のコンティンジェンシー」(『今を生きる滝沢克己』所収、同上)から要約して抜き出せば「滝沢は原点を説くけどそれをつかむ〝きっかけ〟を教えてくれるわけではない」となります。悲痛な訴えです。最首塾で今でも折にふれて滝沢を取り上げる理由でしょうか。それは最首さんの求道者としての一面の然らしむるところだと思います。八十代の最首さんがどういう決断をされるのか見守っています。

最首さんが詩人だというのは文章からの印象ですが、そこに求道者という一面を加えれば事情はお分かりいただけるかと思います。もちろん信仰の詩というものはありますが、私たちがふつうに詩と呼ぶものはそういうものではないでしょう。高村光太郎も宮澤賢治も萩原朔太郎も中原中也も茨木のり子も・・・。そんなことを面白く物語る力はありませんし場所でもありませんが、最首さんの御著書のタイトルを示すだけでその詩人ぶりは伝わることと思います。『生あるものは皆この海に染まり』(新曜社)『星子が居る』(世織書房)『明日もまた今日のごとく』(どうぶつ社)『〈痞〉という病からの』(同上)など。忘れがたいネーミングです。科学者をはみ出してそう言わないと気が済まないものが最首さんの中に巣くっているのだと思います。独特ないのち観のほか、問学、二者性などの造語にもそういう傾動が表出されていると思います。最首さんにはそのいのち論にみられるようなアナーキーなもの、荒ぶるものが根柢にあると思いますが、一方で科学者、求道者、詩人の側面があり、氏を無頼派のすさみから遠ざけているのだと思います。そして決定的なのはご家族と星子さんでしょうか。

もうすぐ終りにしますから、いま少しお付き合い下さい。最首さんの親という一面に触れさせていただきます。といっても私は、最首さんのご家族についてほとんど知ることがありません。ただ、相模原津久井やまゆり園知的障害者大量殺傷事件の後、折にふれて最首さんの言動をみていると、親としての苦悩を感じて涙を禁じ得ません。たしか犯人を殴り殺したいとは書かれたかと思いますが、最首さん、親として犯人をもっと非難してもいいんじゃないですか。怒ってもいいんじゃないですか、と思います。しかし、そうされない。最首さんのふるまいとことばは、それが所詮他人の身勝手な思いにすぎないと語りかけてくるようです。倫理の極北にひとり立たれているかのようなお姿は、最首さんが身をもって示してくれる人間の原点なのかも知れません。それがもう親を超えていることが悲しいのですが、凄い最首悟がここにもいます。最近の二者性の思想は、親を越えて親であり続けることをも支える、最首さんのついに到達した地点であると私は確信します。それが明るい方へであったことを、とりあえず喜び、言祝ぎたいと思います。

忘れられない最首さんです。

(二〇二二年二月三日)

(補)
最首さんのお名前とともに稲垣聖子さんと和田周さんのお名前を書かせていただきます。稲垣さんは最首塾の古参メンバーというほどの認識しか私にはありませんが、忘れがたい方です。その風貌とともに部屋で亡くなっているのが発見されたという事実からです。水俣で博士論文を書くとかで、消尽したようでした。生き方においてとても過激な方だったんじゃないかと思っています。西新宿のビルから身を投げて死んだ、歌手の藤圭子(宇多田ヒカルの母親)の痛ましさと同様のそれを感じます。藤と反対に、生きようとしての急逝ですから余計です。ご冥福を祈りたいです。和田さんは最首塾で上映された先の映画で知り、感情移入してしまった方です。なぜなら、最首さんがしつこくアルコールを勧め、下戸の和田さんが困惑する場面をえんえんと観せられたからです。いまでいえば明らかにアルハラ(アルコールハラスメント)でしょう。映画の本筋はその場面にあったのではないのですが、下戸の私は和田さんに同情してしまいました。その後、和田さんご本人にお会いし、劇団つき戯曲作家で俳優でも演出家でもあることを知り、年一回一週間ほどの公演を見せていただくようになりました。和田さんの劇は現代劇で意味を超えたものでしたが、そこまでは判ってもそれをどう受けとめていいのか、私には受け皿がなかったようです。そういう演劇を作り演じられる和田さんでしたが、過激な稲垣さんと対照的にとても常識的な方だったように思います。下戸が三人というので、Yさんと三人で集まって話したり食事に行ったりするようになって、そう感じました。和田さんに案内されて浅草でどぜうを食したりして、楽しかったです。そんな折、いろいろな話しをしましたが、女性観で対立したことが印象に残っています。私が女性は愛しいと述べたのに対して猛反対、そんなもんじゃないというようなことを仰いました。そうか、そういう女性経験もあるのかと、当たり前のことを再認識させられた覚えがあります。認知症になられた連れ合いの見舞いに通って居ると仰っていたご本人が、コロナで先に逝かれたとか。人生の儚さや残酷さを突きつけられます。心からのご冥福を祈らずにはおれません。最首さんの回りには濃い人が集まるのでしょうか。そうそう、ガンで亡くなった沢下元さんも、忘れがたい方でご冥福をお祈りしたいお一人です。沢下さんは「がらくたの歌」でしたか、そういう手作り誌を発行されていたと思いますが、私が「このタイトルはよくないのでは」と批判めいたことを口にしたので気色ばむことがありました。しかし、自分の思うことを黙々と為しかつ書かれていました。その内容も私にとっては驚くべきものでしたが、上下二段で十頁以上ある冊子に校正ミスがひとつもないのには驚嘆しました。サイモン&ガーファンクルにたしか So Peculiar man という印象深い歌がありましたが、トラウマ的な強いこだわりを感じる、まさにPeculiar な方でした。あれは邦題が、たしか、「とても変った人」だったと思います。しかし、歌詞の主人公と違って、沢下さんも自死ではなく、生きたいいのちをもぎ取られました。残念です。

(二月一二日)