悟るとはどういう状態なのか、考えてもわかりません。たぶん、平静に心が波立つことのない日々を送ることなのかと思ったりします。でもそれでは生きているということにはならないんじゃないか、平穏な暮らしは、喜びも哀しみも笑いも怒りも、ある小さな範囲に収まっているという感じがしますが、平静というと、出来事について無関心な様子を思わせます。
悟りとは悟らず悟る悟りにて悟る悟りは夢の悟りぞ
という詠み人しらずの歌があります。私の名前が7回も出てくるなあ、という感じで覚えているものです。わかった!と同じで、悟った!という、快哉だか歓喜だか、いやそういう表現は不謹慎で、沈潜する深い心構えとでもいうのでしょうか、それまでの自分とは違う新しい自分になったという自覚は、夢の中のことだ、とこの歌は突き放しています。
悟りの境地は、自分ではわからない自分の変化だというのですが、そうすると、周りの人たちの態度の変化で、あゝ、私は悟ったらしいと気づくのでしょうか。それにしても厳しい修行を重ねた結果です。6世紀前半の達磨大師は座禅を9年間続けて手足が腐ってしまったという伝説があります。それで置物というか縁起物のダルマさんができたそうです。座禅は身体を動かさず何も考えないという修行です。長時間、頭を空っぽにする、とうてい出来そうにありません。頭を空っぽにすると、一切は空、という思いに至る、語呂合わせみたいな感想で申し訳ないことですが。
悟りは凡人には縁のないことのように思われますが、信じることの一つだとすると、私たちみんなに関わってきます。これまでプラシーボ(偽薬)やマインドコントロール(洗脳)のことを取り上げましたが、やはり信じる能力に訴えるものでした。何かにつての説、あるいはそれを説く人を信じることは、私たちが持つ良き能力だと思います。
ただ、信じる中身・対象が私たちの日常とはケタの外れたものだとすると、それは極めて抽象的で、それを説く人もなにかレベルが違う偉い人のように思えます。その人のことを〈あなた〉と言ってみます。あなたは二人称なのですが、日常ではあまり使いません。尊敬しているという意味で使うと、とんでもなく失礼になることがあるからです。上司をあなたとは呼べません。
英語では二人称は〈YOU〉です。その日本語訳は場合に応じて多彩ですが、一般を意識して一つ選べと言われたら〈あなた〉になるかと思います。丁寧な言い方で、よそよそしい言い方ですが、一応あなたはYOUで私と対等な言い方とします。もう一つ、相手が人でない場合でも、あなたと呼ぶことにします。ミミズでも石でも波頭でもあなたと呼ぶことにします。それじゃ感情がこもることになる、と言われそうですが、使う時は一緒に居る場合とか、共に居る場を思っていると受け取ってください。
さて、信じる対象やそれを信じませんか、と勧める人をあなたと呼ぶことはできません。対等ではないからです。宗教上の神や仏をあなたと呼べませんし、神や仏を説く人もあなたとは言えません。神や仏は超越しているからです。神や仏を信じるように説く人は超越ということがわかっているんだと思われるからです。超越とは共にいる場から遠く離れているということです。
私は超越ということがよくわかりません。それなりの努力はしてきましたが、心に沁みるのに必要な体験がないからかもしれません。それで、同じ場に居るあなたと私は対等なのだ、という意味がくっついている〈あなた〉としてあなたを使いたいと思います。そうすると、あなたと〈あなたのあなた〉も対等ということになります。〈あなたのあなた〉は私のことです。
森有正という哲学者は、日本人のマイナスの特性として、〈あなたのあなたとしての私〉を挙げました。例として、あなたが父親とか校長先生とか村長さんを挙げました。私はそういう権威のある人の言説に振り回されて、首尾一貫した人間になれないというのです。昨日イエスと言ったことに今日はノーというようでは外国から信用されないとします。
たしかに権威のある人の言動にいつも従って、態度や意見を変えるのはのは良くありません。でも私たちは日常の暮らしでは、そのときどきの情況に応じた判断をします。欧米では、それは女性の仕方であって、男は終始一貫バックボーンに基づく言動をするとされています。ホントかなと思いますが、私たちは女も男も柔軟に協調し、和を保っていると言えれば、いいと思います。
あなたとあなたのあなたは対等で、それで信頼は相身互いの互換性、互酬性を帯びることについて、やっと話せそうになってきました。次の回に続けます。