信じるということは、この世ではない超越した神や仏についての、私たち人間の心情の根本の表現です。それに対して、信頼はこの世での、あなたと私が共に居ることの、基本的な心情です。あなたは私が立てる存在で、同時に盾る存在であります。盾るとは、聞きなれないでしょうが、あなたを盾として私を守ってもらう、あるいは、風よけになってもらう、というような意味だと受け取って下さい。
私はあなたを決して軽んじないけれど、そうするのは、同時にあなたが私を、意識せずに守ってくれているからだと思うところがあるからです。そして私はあなたのあなたであるという哲学者森有正の言い方を紹介しました。私が立てるあなたが、私をあなたと見なしてくれる。それはあなたと私が互酬性のもとにあるということを意味しています。わたしがあなたを立て、そしてあなたが私を立ててくれるのです。
いのちは〈共に生きる〉という属性を持っています。属性とは本質の一つの表れです。ですから、ある物事の属性はいくつもあることになります。いのちの属性として〈共生〉はとりわけ大事な属性です。〈共生〉の単位というか、出発は〈二〉です。ヒキガエルは普通は一匹で生きていますが、春の交尾シーズンになると集まってきます。そしてメスとオスが交尾をして次世代を残します。
ダーウィンの『種の起源』は、種とは他の種と交尾をせず同一の種内で交尾してその存続を図るとして、その出発について書こうとしたものです。種の出発は〈一〉でしょうか、〈二〉でしょうか、それとも〈多数〉でしょうか。今西錦司という、九十歳で亡くなられた高名な生態学者がいます。登山家としても霊長類研究の始祖としても名が知られています。その今西が新たな種の出現について、いちどきにワッと出るのだ、という表現を使いました。種の進化は一個体からではなく、種全体が一斉に変わるのだというのです。ダーウィンの、種の進化は一個体から、とは真っ向からぶつかります。
有性生殖ではオスとメスが必要です。ミミズは雌雄同体なのですが、生殖には他個体が必要です。そういうことも加味して、新しい種の始まりには、種全体が新しい種に変わるか、最低二個体が変わるか、というようなことが考えられます。一個体という主張には、いろいろな理由があるのでしょうが、私たちが知っている動物では、新しい種が存続するためには、スタートはオスとメスの二個体が必要ではないか、と思うのです。
〈共に生きる〉は〈二〉から始まる、という言い方は、オスとメスの〈二〉も含めて、共生には関係性が必須で、或るものと或るものが関係を結んでいるということを表しています。〈二〉は〈…と…〉ということになります。共生は関係がまだない〈一〉からでなく、関係がある〈二〉から始まるのです。私は〈あなたとわたし〉を基にした共生体です。私は個人という〈一〉なる存在ではありません。共に生きる〈二〉という関係存在で、私は一人だという、しばしばやってくる思いも、あくまで関係存在という土台の上の考えです。こういう〈二〉をこれから二者性と呼ぶことにします。
西欧の旧約聖書では、最初の人アダムは神によって創造され、次にアダムの肋骨からイヴが創られたとあります。イヴは〈一〉からの〈一〉です。神とアダムは二者性ではないかという思いがしますが、神はゴッドで、異次元の絶対者であり、人を含めた全ての創造者です。創る神と創られた被造物のアダムは次元の違う〈一〉と〈一〉で、〈二〉にはなりません。ゴッドはもともと〈一〉なのですが、日本の神は八百万(やおよろず)の神々と言い、森羅万象に宿っています。日本の神をゴッドと訳したのはまずかった、で始まる本もあります(鹿嶋春平太『神とゴッドはどう違うか』)。
いのちは〈共に生きる〉という属性をもっている、ということから関係性が浮かび上がり、その始まり〈二〉を二者性と呼ぶことにしました。私という存在を軸にすると、二者性は〈あなたと私〉ということになります。〈あなた〉は人であることから始まってゴキブリもミミズもサクラもイシコロもウミもヤマもナミガシラも、そして森羅万象に及びます。
そういうあなたを、わたしは先頭に立てて、そして守ってもらいます。同時にあなたは、あなたと呼ぶ私を立て、自分を守る盾としています。お互いが頼り頼られています。このことを頼り頼られるは一つのことだ、という受け止め方を信頼と呼びます。神・ゴッドは信じるしかありませんが、人を含めた森羅万象は信頼できるのです。明恵上人の「月を見る我が月になり、我に見られる月が我になる」を思います。