返信59:個人について(最首悟、2023/5/13)

序列をこえた社会に向けて

個人という言葉は、今はふつうに使っています。いかめしい感じも重々しいひびきも感じられません。それがいいことかというと、すぐにそうだとも言えません。じゃあ悪いかと言えば、これまたそうだとも言えません。翻訳した英語のもつ意味が日本人にとって、特別な意味合いをもっているのでなく、ふつうに受け止められるようになった、ということであれば、ひとまず、いいと言えます。でもその意味が抜け落ちて、一人の人を指す言葉になっているとすればいいとは言えません。

西欧の社会は、個人で成り立っています。個人は自由であり、かつ責任存在です。そして責任は義務が伴います。この責任ということが、私たち日本人には身に付けようとして、なかなか付けられないものなのです。私たちは、なにか不祥事が起こると、責任を取れ、取らないの問題にぶつかります。そしていわゆる責任者が責任を取ってその職を辞めます。場合によっては、自殺します。

組織の長が責任を取る場合は、責任はその職にあると見なされて、その職を辞めれば、責任を取ったことになるのです。自殺の場合は、松本清張の小説の下地のような、中間管理職が責任を負わされて、世間やその組織に迷惑をかけたと、謝罪をあらわす自死ということが起こります。そういう場合、家族の面倒はちゃんとするから、組織のために死んでくれと説得されたりします。今では、さすがに情にからめた、このような義理と人情の浪花節的な処理は見られないと思うのですが、終身雇用という親方日の丸の時代にはさもありなんという思いがします。

個人の責任は、自己の責任と言い換えられますが、「の」が取れて自己責任となると、なにかカセのようになって、自縄自縛といった身動きのできない状態になる意味合いが出てきます。なにか率先してやろうという気になったときに、自己責任だからね、と言われると、風船がしぼむみたいに気が萎えてしまいます。地域の活動を始めとして、ボランティアの意欲に大きな影響を与えています。近所の公園に、自己責任で遊びましょうという張り紙が出たこともあります。

西欧の個人の自由と責任は、神の前に一人立つという意識が大きな前提になっています。神の前で恥じることがない、と言い換えられますが、なかなかそうは行きません。それでカソリックには告解という悔い改めの機会が与えられていて、自分はこれこれの悪いことをしてしまいしたと神父さんに打ち明けるのです。

責任とは英語でリスポンスビリティと言います。リスポンスは〈応答〉、ビリティは〈することができる〉という意味です。神の前に一人立って神の問いに答える義務があるというのです。この義務を果たしているという自覚のもとに、神よ助けたまえと言えるのです。たとえば戦争の困難な局面で、神の御加護を、と祈ることができるのは、自分は正しいことをしているという確信を前提にしているのです。

西欧では、法は自然法に基づくと言われます。自然法は何か、私にはよくわかりません。でも自然法をたどると、神が定めたということに行き着きます。神の問いかけに応えるとは、自分が、法の精神に照らして、間違っていないかどうかを問うことです。そして間違っていると言えるでしょうか。言えません。そのために前もって、自分はこれこれの罪を犯した、反省していると、教会で打ち明けておくことが必要なのです。

私たちは、法の精神といったことはあまり考えません。神の前で問われるということも想像しないと思います。良心にもとるとは思います。でも日常では、ふつう気が咎めるといった程度です。法律に違反する場合は、違反する理由が、それぞれの場合にあって、仕方がないとか、法律が悪いと思うことが多々あります。

私たちは、普遍的で絶対の法という概念になじまません。というより、その時々の情況に応じて物事は変わる、あるいは変えるという相対の立場にたっているので、水と油の関係のようだと思うからです。もちろん私たちには掟があります。でもその掟を破らないで、なんとか事態を収拾しようとします。大岡裁きがそうです。知恵を絞って、なんとか罪を軽くしようとします。現在日本には死刑があります。死刑は取り返しのつかない処置です。名の知れた国で死刑制度があるのはアメリカを含めてごく少数です。日本はその一つの国です。なぜそうなのか、改めて書く機会があればと思います。ちなみに前に書きましたように、私は死刑には反対です。

個人は責任・義務に加えて、というか、対応する権利を持っています。権利もまた翻訳するのに難しく、従って身につくのは容易なことではない考えです。