信頼するということから個人の話になりました。個人は関係よりも存在が先だつ独立不羈(ふき)の存在です。関係は二の次といったら誤解を招くかもしれません。創造主が個人を創ったという原関係があります。でも、この原関係は創造物同士の関係とは次元が違います。人同士の関係といえば、旧約聖書ではアダムの肋骨から創られたイヴをもって、初めて成立したといえます。アダムという存在に続いて、イヴという存在が出現して、はじめて二人の関係が生じたのです。
今は21世紀です。世紀元年はイエス・キリストが生まれた年として設定されています。私たちもこの表記をずいぶん使うようになってきましたが、公式には天皇の即位の際の年号が使われます。私(昭和11年、1936年生まれ)の世代は、国民学校で神武天皇から始まる年号の暗記が必須でした。三年生の夏、初めて天皇の声を聞きました。やっぱり、なんだか人間の声じゃないみたいでした。
やっぱりというのは、天皇は、現人神という言い方は、たぶん知らなかったと思うのですが、人間は人間だけど普通の人間じゃないとは思っていたので、そういう思いがしたのだと思います。言っていることは分からなかったけれど、母親の態度から戦争に負けたのだとわかりました。母親が何と言ったのか、戦争が終わった、と言ったのか記憶にありません。臥薪嘗胆、という言葉は知りませんでしたが、そのような感じで、鬼畜米英をやっつけるのだと思ったことは確かです。
その後、戦争に負けたのか、戦争は終わったのか、どっちなのか、という思いがずっとついて回りました。そして日本中が、敗戦でなく終戦という言葉で蔽われていくのはごまかしではなく、日本人の事態認識の表れと、次第に思うようになりました。戦争を始めた、そして負けたではなく、戦争が始まった、そして終わったのです。
そう思うようになったきっかけは、4人の子どもの末っ子に、ダウン症の娘が生まれたことでした。〈生まれた〉という思いを強くしました。わたしたち夫婦が〈産んだ〉のでなく、〈生まれた〉のです。ほかの子どもたちのときも〈生まれた〉と思っていたのでしょうが、そのことを強く意識することはありませんでした。末娘、星子の場合は、〈やってきた〉という思いが強かったことが〈生まれた〉という意識をピン止めしたのかもしれません。
星子の誕生を契機として、戦争が〈終わった〉という言い方は日本人の実感なのだと思うようになりました。それでも退却を転進とした言い換えは卑怯だ、という思いは残りました。その関連で言うと、昭和16年12月の開戦から、六ヵ月後の昭和17年6月のミッドウェー海戦で、日本はほぼ敗北したことを国民は知らされませんでした。大本営発表は嘘を言い続けたのです。ミッドウェー海戦後、昭和20年8月までの3年と2カ月、軍部に騙され続けたという思いがあります。もう少し早く戦争を終わりにすれば、広島・長崎の原爆はなかったかも知れません。
そう思う一方で、どんな出来事にしても、それは万象絡まり合っての結果なので、そこにどのような人為の関わりがあっても、それは、そのことが起きたことの主要な原因にならないという感じがします。そもそも、どのような人為でも万象の網の目が絡み合っているのです。たしかに、人間は自分のやったことに責任があります。しかしやったことの責任をとるということは、おこがましいのではないか、という思いが、私たち日本人には思い浮かぶのではないでしょうか。
「責任はある」と「責任をとる」とは別のことです。自分がしたことに責任はあるということは、その責任を負い続けることを意味します。前にも述べましたが、私は死刑に反対です。どうしてそうかというと、それは、他者が法の下に、罪を犯した人がその責任を負い続けることを中断させてしまうからです。まして、えん罪の人を死刑にするのは殺人です。さらに言えば、殺人を犯した人が死罪を認めるのは、自分の責任を放棄することだと思います。
西欧の創造主が生み出したアダムとイヴの存在とその関係の話から、イエスが生まれた年が世紀の始まりだということ、日本の年号に移って、昭和20年の〈終戦〉という言い方に対する違和感の話になりました。 いいとか悪いとかいう問題ではなく、私たちの心根には〈なりゆき〉が横たわっています。そして一方では、〈個人〉に憧れています。ただ、個人というと、すぐに〈自己中〉が浮かんできます。義務と責任感がうすいエゴイストです。私たちの身についた〈全てはなりゆく〉では、未来がかすんで、その日暮らしの考えに傾きます。「則天去私」という夏目漱石の言葉を思い浮かべながら、この項をもう少し続けます。