ディンクス(DINKs―ダブルインカムノーキッズ)という言い方があります。1980年代に目立つようになってきたと思います。それとともに専業主婦は寄生虫という見方も登場してきました。そして一億総活躍は第三次安倍内閣(2014)のスローガンです。
子どもを持たず二人で働いてゆとりのある生活をする。食えないから共稼ぎを余儀なくさせられるという事情には、子だくさんで貧乏というイメージがあります。ディンクスには貧乏ゆえの共稼ぎというニュアンスはもはやありません。すでに職業を持っている男女が結婚するのです。子どもが生まれない状態のカップルというよりは、子どもは持たないという決意の表明という点で、新しい時代の宣言のようでした。家の都合による結婚という時代はすでに過ぎ去っています。そして子どもを持たないとなると、カップルが同姓である必要は大幅に減ります。
私は昭和の世代です。今は、なにそれは昭和神話の名残りだと言われるほど、昭和ははるか昔という感じになってきました。私の子ども時代は単に子だくさんではなく、産めよ増やせよという国のお達しが行き渡っている時代でした。私は姉・弟・弟・妹・弟の6人きょうだいです。母親が、あと一人で表彰されたのにと嘆くのを聞いたことがあります。次男三男と三男次女の間はそれぞれ、ほかのきょうだいの間よりは離れているのですが、それは父の北支への出征と、父は東京にとどまった一家の戦時疎開に関係するようです。
今は少子化が、働く人が足りなくなることを第一の理由として、心配されるようになりました。その対策が政府レベルでいろいろなされようとしていますが、少子化からの回復は至難で、まず10年はかかる覚悟が、フランスの例を見ても、必要ではないかと思われます。子ども世帯を支える経済政策は、あくまで必要条件にすぎません。
ディンクスの男女、そしてDINKsを望む人たちも子を持ちたいと思う日が来るかもしれません。そのきっかけは何でしょうか。そもそも子どもは生まれるもので産むものではないという思いは人々の心の底に横たわっていると思われます。子どもの誕生は当事者にとってもまわりの人々にとってもめでたいことです。生物には種の存続が本能として刷り込まれています。種は環境の変化に対応して、新しい種に変化します。
ふつうは変化を進化といいます。いまのところ、その進化の頂点は、ホモ・サピエンス、すなわち人類であるとされています。人類の特徴は、みずからの環境を変えるということにあります。置かれた環境への順応だけでなく、より好ましい環境を創り出す能力を持ったのです。ただその能力によって、地球の寿命はあと50万年ということをはじき出しました。存続をはかるには地球からの脱出しかありません。
そして少人数の脱出でなく、種としての脱出を考えるとなると、肉体を超越した存在になっていなければならない、というようなことになって、思考は打ち切られます。50万年先を考えることはほとんど無意味です。100年の計といいますが、それも具体的に考えることはありません。それよりも他の民族はさておいて、私たち日本人は、来年のことを思いわずらうと鬼に笑われますし、人の噂も75日、昨日今日明日の暮らしを立てることが大事なのです。私ごとでは、できることといえば、ないないづくしの重度障害をもつ星子(47歳、第4子)を一日一日と世話をするというタイムスパンです。〈陽はまたのぼる〉が身に沁みます。
一日一日と暮らすと言っても、親は子どもより先に死にます。その際、きょうだいがいるといってもそれぞれの事情がありますから、やはり日頃お世話になっている作業所やその伝手の施設に頼ることになります。頼るといっても、星子と母親の絆は切っても切れないような感じなので、いわば第二の母のような女性が必要です。幸いそのような女性が星子の通う作業所のスタッフですので、心安んじることができています。母親は、何につけ心配したことがなく、星子の将来についても「大丈夫よ」の一言で終わります。「信頼」がゆるぎなく、居座っているような感じがします。
話がそれましたが、少子化は女性の社会的なあり方を反映しています。母親の子育ては三年というのも、昭和神話を引きずっているという論評があります。三年は長すぎるというのです。専業主婦という言い方には、外に出て働かないことを強調するためのネーミングですが、やはり主婦の仕事は、子育てを中心にして一日休む暇がないということの意味が薄れてきたということも反映していると思われます。寄生虫という言い方は意外と男性からの賛同があったのにもそのことがうかがえます。