返信70:こどものころの夢(最首悟、2024/4/13)

序列をこえた社会に向けて

このところ、夢について考えていたら、やはり13歳ごろの夢のことが出てきました。なにか意味のありそうな夢は、というと出てこざるを得ないということもあろうかと思います。単純な夢といえば、5、6歳ごろの毎晩と言っていいくらい見た夢です。おしっこが出たくなって、ちょうど、ドブとか大きな樹とか原っぱとか明るい便所とかが現れて、やれやれと気持ちよくおしっこをするのです。つまり毎晩のようにオネショをして、毎朝のように濡れたふとんが干されるのです。年子の弟も同じで、干されるのは二組みでした。

便所への恐怖がありました。もちろん汲み取り式で、真っ暗な穴が開いて、跨いでしゃがむ和式便器でした。真っ暗な穴から手が伸びてきて引きずり込まれる、誰に聞かされたのか、男の子に共通の恐怖だったのではないかと思われます。三歳下の弟の寝小便に記憶はありません。便所の改良がなされた記憶がないので、一晩我慢ができるようになったのか、暗闇の恐怖が減ったのかわかりません。

私は、3歳のときから喘息で、梅雨のころと3月と9月の気候の変わり目に発作がひどく、東京の小学校1年のとき、房総の海辺の親戚の家に預けられました。ずいぶん元気になったころ、米軍の艦載機による攻撃などがはげしくなったため、戦時疎開の家族と合流するため、福島の盆地に移りました。そして盆地の気候が合わなかったためか、喘息がひどくなり、終戦の9月、また房総の海辺の別の親戚の家に引き取られることになりました。そして、千葉県の市川市に引越した家族のもとに帰ったのです。

このころは、日本が180度変わった時代です。鬼畜米英、ルーズベルトの緒が切れてチャーチル散る散る花が散るなどと、囃し立てていた子どもたちが、米軍のジープから撒かれるチョコレートを奪いあったのです。民主平和憲法が制定され、神国の大日本帝国についての記載が黒塗りにされた教科書を片手に先生たちは、大変でした。でも私はそのころの授業の様子をあまり覚えていません。たぶん欠席が多かったのでしょう。

昭和23年5月、4回目の転校で5年生になりました。そして夏休み明けの二学期始めから学校に行けなくなりました。そしてなんと3年間学校を休んだのです。3月は喘息の発作がひどく、4月の始業式を欠席すると、なんだかずるずると学校に行かず、翌年もその次の年も同じようにして、結局3年間学校に行きませんでした。昭和24年の秋、父親が結核で亡くなり、その前半年間、母親が病院に詰めることが多かったという事情もあります。

通いのお手伝いの中年の女性のおかげで日々を越せたのですが、まあ、私は留守番のような役割をしていたのかもしれません。ただ喘息のときは自分で注射をしたりするのです。注射針を研いで、アドレナリンを射つという、信じられないようなこともしていました。

横になれず、折りたたんだ布団に枕をのせて、うつぶせになっているようなときに、同じ夢を何回も見ました。暗い井戸の壁を、小さな虫のような生き物が、ジリジリと這い上がっていきます。もういいよ、と声をかけるのですが、止めません。上を見ると、ぽっかり小さな丸い空が見えます。声をかける私はどこにいるのか、苦しくはなく、でも、なんだか見るにたえなくて、もういいじゃないか、と声をかけてしまうのです。

でも、その虫は壁を登るのを止めません。井戸の縁に達したらどうするのだろう。いつになったら達するのかもわからないけれど、達したらどうするのだろう。たぶん登りつづけるのだろう。どうやって。羽が生えて空に飛んでゆくのか。いや、ジリジリ登りつづけるのだ、見えない筒の壁を登りつづけるのだ。どこまで。分からない。空は果てしないから。

臨死体験という、死の世界を垣間見た人たちの記憶では、あの世は平静で死ぬのが怖くなくなったそうです。繰り返し見た、井戸の壁を這い上がる夢は、臨死体験の手前というか、三途の川の岸の近くまで行ったような夢なのかもしれません。歳をとるにつれて、この夢にかかわるような知識や思いが増えてゆきました。「井の中の蛙大海を知らず、されど天の高きを知る」を始めとして、夏目漱石の「則天去私」、ずっと飛ばすと石牟礼道子の「祈るべき天とおもえど天の病む」そして釈迦の「犀の角のごとく一人歩め」などです。

そして、8歳の頃、目が見えなくなり、言葉が出なくなって、食べることも自分でしなくなった娘の星子の、〈よびかけ〉のようにして、大きな、包まれるような〈わからなさ〉が開けました。どこかが光る霧に抱かれるような「五里霧中」です。その中を〈犀の角のごとく一人歩む〉私は、星子の世話をする母親を世話する係りとして、家事買い物雑事を、とろとろとやっています。