返信71:想像する(最首悟、2024/5/13)

序列をこえた社会に向けて

異なる世界があるのかどうかという疑問は、多くの人がもっています。でも本当にあるのかと、念を押されると、ためらいます。この世界と違う世界がないとは言い切れないので、あるんじゃないかと思うわけで、あるとまでは断定できません。それで、あるとしたらどんな世界なのだろうとあれこれ想像します。 異なる世界があると思うのは、私だけじゃない、多くの人々がそう思っているだろう。そう思うことは、自分の経験に基づいています。異世界が本当にあるという思いを踏まえて、他の人に本当にあるのだろうかと問いかけているのです。

〈たら・れば〉は想像の始まりです。あのときああだったらと、新しい条件を設定して、その条件の下で起こる事態を考えます。いろんな条件を考えて、そこから展開する成り行きをあれこれ考えることを、想像力を鍛えるといいます。想像は、事実、あるいは事実と思われているもの、言い伝えをまず受け入れて、その上で、その内実をあれこれ思うことです。例えば天国です。日本では天国の考えはないので、大雑把に、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の教えに基く考えだろうと、私たちは思っています。

キリスト教でいうと、まず世界の終わりがあります。終わりがなければ何ごとも始まらないのです。授業だって、映画だって、終わりがなければ、誰だって受けたり、見たりしない。これはアウシュビッツを生き延び、『夜と霧』という本を出した、フランクルというお医者さんが言った言葉です。楽しみにしても苦しみにしても、終わりがあるから、意味があるのです。

終末には神の審判があります。その審判を受けて、人々は浄化され、天国に落ち着きます。ところが天国の終わりは設定されず、永遠に続くのです。この世の終わりはあるけれど、天国は無限に続きます。私たち日本人にとっては、この世は「終わりなき世のめでたさよ」です。私たちとは、明治の文部省唱歌「一月一日」(いちげついちじつ)に慣れ親しんだ世代です。

年の始めの 例(ためし)とて/終りなき世の めでたさを/松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに/祝(いお)う今日(きょう)こそ 楽しけれ

国家の「君が代」は、水の中の小さな細石(さざれ石)が大きな巌(いわお)となるほどの長い年月、あなたの時代は続くという意味合いで、君は天皇を指していますが、君主でもないし、国会議員が互いに呼ぶ君(くん)でもないので、君(きみ)という呼び方になりますが、君(きみ)はふつうの二人称だったことから、天皇を君(きみ)とは呼びません。

「君が代」は10世紀の古今和歌集に、詠み人知らずの項に収められた和歌です。

正式に国歌として法制化されたのは、国旗とともに、つい最近の1999年のことです。国旗の「日の丸」は、幕末からの慣用として使われてきました。太平洋戦争中は、愛国弁当として奨励されましたが、だんだん贅沢な弁当になりました。学校での弁当では、人に見られないように、弁当箱の蓋を立てて食べるのが通例でしたが、それは貧しい弁当を人に見られるのが嫌だったからです。そして白飯の日の丸弁当が贅沢になってきて、これもいちだんと隠して食べるようになったのです。

また話がそれました。異なる世界の想像は、第一に、いろんな終わりが提示されているからです。そして、いまの世の中とは違う、あの世でもなく、この世でもない、もう少し生きやすいその世を思うからです。ヴァーチャルな世界となると、人間を超えてしまうので、そこまでは想像しません。地位や能力で、人を分けない世界です。IQ20以下は人間ではない、殺してもいいのだ、というような世界ではありません。

今は、少なくとも日本では、無能力者と見なされる人も、生きられる福祉制度があります。でも認知症の高齢者の増大と、少子化と併せて先行きが危ぶまれています。でも国家という単位をなくすほかないのでは、という考えは現実的ではありません。では想像かというと違います。困難な課題ではあるけれど、取り組まねばならない課題の一つです。労働力不足は、外国からの労働者に頼るほかないとすれば、移民を含めて、国家の枠組みがゆるくなってゆくことは必然でしょう。

想像と創造はどのように混じり合っているものだろう。創造と幻想、幻想と妄想はどう違うのだろう。わたしは惘想という言葉を使っています、網の目を一つ一つたどってゆくような思考です。だんだんこんがらがって、何を考えているのか分からなくなります。天網はどうでしょうか。人間が使えるような網ではないことは確かです。