霧の中では自分はどこにいるのだろうと思います。端っこの方にいるのか、真ん中にいるのか。霧に出会った記憶はごく少なく、箱根で出会った霧は乳白色でした。あっという間に包まれて、しばらくすると、晴れ上がりました。乳白色は、水俣で不知火海に出会ったときに、石牟礼道子の「乳白色の潮」は、ほんとうにそうだと思ったこととつながっています。「水清ければ魚住まず」です。
プランクトンが湧き出る豊饒な海、その海を日本の一大企業であるチッソが有機水銀を流し、不治の水俣病を引き起こしました。当初は漁民が腐った魚を食べた食中毒とされました。これほど漁民を侮辱する見解はありません。漁民は新鮮な魚しか食べません。漁民は少数者として、また魚介類の流通は干物や塩漬けを除いて不可能だったので、統治機構から外されて来たということもあります。士農工商の埒外の存在だったのです。
霧の中にいると、どのような地点にいるのか、気にかかります。霧の中心にいるのか境目に近いところにいるのか。霧の中だろうが、そうでなかろうが、地面に立っているとすれば、話は簡単です。地球を球とすれば、球面上はいたるところ中心なので、どこに居ようとそこが中心なのです。球面民主主義とは誰もが中心存在として尊ばれることを根幹とします。平面上で神の下にあっては、お互いに平等だという考えは、平面民主主義と呼ばれます。
霧の中では、どこが中心なのか。五里霧中という言い方は、自分の立ち位置がまったく分からないということを表しています。不安ではありますが、中央とか末端とかのこだわりから解放されているとも言えます。私のイメージでは霧は、ほんわり明るいのですが、それに加え、どこかが光るのです。と思うと、別の場所が光るのです。なんだろうと思うのですが、何か、捨てたもんじゃないという気がして、希望という想いが湧いてくるようです。1997年、柄にもなく、詩のようなものをつくりました。
霧のなかにキラリと光る/光っている、それは疑えないのだ/あたりはほの明るいのだから/しかしそれがものなのか、どこで光ってるのか/ということになるとおぼつかない/霧の向こうに晴れ上がった空間があって、光る実体もあって/といわれてもこの霧では/歩いてきた道もみえないし、どこへ向かっているといったって/キラリ光ることが目安なに/どうもちがう方向で光るようでもあるのだ/ずいぶん歩いたつもりだが/変わらずキラリとそこが光り/やっぱりもとの場所に近いのか/霧はどこまでも乳白色に途切れない
乳白色の霧に包まれた平穏と落ち着き。心配しないでいいのだよという〈その世〉のひとつかもしれません。
14世紀イギリスに、作者不詳の『不可知の雲』という本があります。載っている絵では、地上と神の間に「不可知の雲」があって、神に出会おうと思ったら、その雲に入らなければならないのです。神に出会うための必要不可欠条件です。では「不可知の雲」を出て神に出会う十分条件とはというと、書いてありません。そんなことはない、全編にわたって、そのことを書いているではないか。
反論はもっともです。ただ明示的に示されていません。本人が自覚せずに到達する境地といったらいいかもしれません。悟りは〈悟らず悟る〉のです。悟ったと自覚したのでは、それはニセの悟りです。神と会いたいという思いは、そのような欲望を一切捨てたときに成就されるのかもしれません。それでまあ、「不可知の雲」は大賑わいと思うのですが、私もその一人になったら、楽しいかなあと思ったりします。
「不可知の雲」の中は何色をしているのでしょう。やはり乳白色でしょうか。わからないという思が充満している〈霧の中〉と同じだと思います。乳白色は母性を思い出させます。乳白色の霧に抱かれて、温和な平穏な気持ちになります。わからないという気持ちと平和な気持ちがつながっているのは、考えてみれば、可笑しく思えますが、いかに私たちの知が小さいか、ちょっと掘り下げて見れば、いかにわからないことだらけか、を思えば、生き方として〈わからなさ〉への定位は、平穏な人生の基盤としてまっとうなことのように思われます。
知ることの努力をないがしろにするわけではありません。でも、下手の考え休むに似たり、には目を開かされます。考えることは休むことだ、いいですね。精いっぱい駆け抜けても、それでどうなると思いながら、なかなかに、のんびりすることはむずかしいです。