返信73:融即について(最首悟、2024/7/13)

序列をこえた社会に向けて

融即(ゆうそく)といっても。なんのことやらと思われるかもしれません。ある未開社会で、自分たちは赤いインコと同じだと思っている、本質的に赤いインコと同一性をもっているというのです。この同一性を融即といいます。融即は分有とも言い、同じものを分け持っているという意味です。分有の方がよほどわかりやすいと思うのですが、分け持っているという意識が溶けているというか、なんの理由も理屈もなしに、心に、生まれながらにして強く位置づいているという意味合いが、融即のようです。

分有というと、なんだかさばさばして、心にへばりついているように一体化している感じが出ません。融即は、レヴィ・ブリュルが1910年に著した『未開社会の思惟』の重要な考えです。この本の改訳が、翻訳権をもつ山田吉彦によって、1953年に岩波文庫から出版されました。私たちの世代では、山田吉彦はきだみのるとして馴染んでいます。きだみのるは戦後、東京都の辺境、小河内に住んで、集落の日常を書き記しました。きだみのる自選集第一巻(読売出版社、1971)の「あとがき」に自分のことを、きだみのる氏と呼んで、次のように書いています。あまり素直な人でないことは分かります。

きだみのる氏は、氏の作品の掲載された雑誌がおくられてくると、顔がほてるようで、滑稽にも大真面目に押し入れの奥に放り込み、彼の目から隠し――だが隠し場所は決して忘れてはいないのだ。その証拠には、何週間かして、気分が落ち着き、気圧の関係か何かで機嫌がよいと、掲載誌のことを思い出し、「はて、かのきだみのるの野郎はいかなることを書いとるかな。ひとつ読んでやろう」と明け放しの押し入れに近づき、押し入れの奥に腕をつっこみ、取り出すのは正しく、そして的を過たず、問題の掲載誌なのだから。

融即に戻りますと、よく感じが出ていると思います。私たちが意識を持った途端に、それはいつのことかと思いますが、私たちの意識に張り付いて、日ごろは忘れているかのような規定というか、本質というような気がします。私が提唱している〈二者性〉という考えがありますが、どうも融即にピッタリという感じがします。

融即はパーティシペーションの訳語ですが、この語には、参加とか干渉の意味があります。干渉は関与とか携わるという意味があり、参加につながります。参加して区別がなくなってしまう。そうなると、ちぎってもちぎっても餅、というような同一性になってきます。中根千枝の『適応の条件』(講談社現代新書、1977)に、餅を引き延ばしたような図が出てきます。欧米の個人に比べて、日本人は個が確立しておらず、人と人は関係でつながっていることを示しています。その関係の大もとを探ると、同一性とか二者性が浮かんできます。

私たちは、みんな違います。身体的には指紋がそうです。「みんなちがって、みんないい」と金子みすゞは謳いましたが、ちがうことがいいという意味も含まれていそうです。でも人には共通に刻印されていることはあるだろう、そのことを考えてゆくと、同一性とか二者性ということにぶつかります。同一性はたった一つのものでなく、複数のものについて言われます。一つ、二つ、三つと数え始めて、最初の複数の二つの間の関係を二者性と呼ぶことにします。

二者性は同一性を含みながら、二つの間とか二人の間の関係性を表しています。三つ以上の関係性は、二者性が組み合わさった関係性になります。多数性とか群衆性、集団性とか言いますが、三者性とか五者性とは言いません。二者性は、反目したり喧嘩をしたり、一人になりたいと心情を含む〈共に〉という連帯性です。現在の世界、社会は、暴力と詐欺が横行していますが、そういう負の面も、〈共に〉という二者性が働いていることがわかります。

今西錦司という、日本の霊長類の研究の基礎を築いた文化人類学者がいます。登山家としても有名です。生物の進化は新しい種の誕生が結節となっています。でも新しい種はどのようにして出現するのでしょうか。新しい種は古い種と交配できないという特徴を持っています。新しい種は一匹とか一頭とか生まれるのでは、次世代が生まれません。進化論ではそこのところがモヤモヤしてはっきりしないまま、暗に〈一〉から始まるとされています。今西錦司は、そこのところを、世界でただ一人、「種はワッと始まる」としました。

その表現に、わたしは、複数性を含んだ二者性が当てはまるだろう、と考えています。融即から二者性へという話しで、今回は終わります。共に遊ぶ、共に食べる、共に暮らす、共に生きる。〈共に〉は二者性の根幹であり、二者性の表現でもあります。