返信76:人の間(最首悟、2024/10/13)

序列をこえた社会に向けて

人間は〈じんかん〉と読めば、人の住む場所という意味になります。〈にんげん〉と読めば、人、あるいは人々をさします。日本語は単数、複数の区別があいまいなので、便利といえば便利なのですが、戸惑う場合もあります。私という人間と言うばあい、私個人という意味合いを含ませようとしても無理です。そもそも個人という概念が日本語の人間にはないのです。人という漢字は人が人につっかい棒をしてもらっているみたいな感じがします。人が人に支えてもらっているようです。支えなしには人は生きてゆくことはできないと訴えているのかもしれません。

個人は英語で、インヴィデュアルと言います。もうこれ以上分けられない単位という意味です。もうこれ以上分けられないということには尊厳の意味が付与されています。個人はただ一人です。創造主は土からアダムという男性を創りました。そして次に、アダムの肋骨からイヴという女性を創ったのです。

アダムの肋骨からイヴが創られたとなると、イヴはアダムの性質をどこか受け継いでいると思うのですが、そういう思いはどこか女性の男性への従属という思いにつながります。女性は男性の一部という思いがどこかします。個が個を生み出すというのがむずかしいのです。ですから、アダムの肋骨も土から創られたという出自が大事になってきます。イヴもまた土から生まれたという余地が残ります。アダムの肋骨はアダムの属性、アダムが備えている性質を受け継いでいないということです。つまり、アダムの肋骨は純粋に土なのです。

個は唯一の存在です。ただ一人の神の前で、ただ一人立って、神に応答できる存在です。応答のことをリスポンスと言います。リスポンスできることをリスポンシビリティと言います。リスポンスビリティは責任という意味ですから、唯一神の前に立って、応答することは自分が責任存在であることを誓った、あるいは認めたことになります。

個は孤独、孤立の〈孤〉です。「この世にただ一人いるとしたら権利は無意味だ、さすれば義務のみが意味がある」、とはシモーヌ・ヴェイユという哲学者の言葉ですが、義務は責任を果たさなければならない、ということですから、この世にたった一人でも責任はあるということに通じます。そうすると、この世にただ一人でも責任があることを表明するには神が必要になってきます。

このように、個、個人という存在は、ギリシア時代を土台として、キリストという神であり人である存在の磔刑(はりつけ)を経て、四、五世紀ころ確立しました。個人は全人です。つまり欠けるところない人なのです。今、日本では個人は当たり前のように使われていますが、その使い方は、一人、二人と頭数を数えるときの一人と同じようで、この私という個人は責任存在であるというふうにはなっていません。

人間じんかん」とは、人々の居る場所という意味ですから、「人間にんげん」も人々という意味合いがあります。もともと人は人が人を支えるという象形文字だと紹介しました。人間は少なくも二人を意味していると言ってもいいでしょう。私は人間だと思う場合、少なくも私ともう一人を意識しているわけです。そのもう一人は私にとって親密な人ですが、そのことをふまえて、私は人間だと思うとき、私は自分と少なくとも、もう一人を意識することを「二者性」と名付けました。

私は西欧的な個人かと問うとき、どうしてもそうだと言い切れない自分がいて、じゃあ、なんなのかと自問するとき、たどりついた考えです。私とは二者性を帯びた人である。私は個人だと言っても純粋の個人でなく日本的な個人なのです。

人の間を考えているうちに、日本的な個の問題が出てきましたが、西欧の個人が唯一神との向き合いのもとに成立しているということを述べました。そして神に応答できることがすなわち個人が責任存在のあかしであることにも言及しました。ここでもう一つ大事な神の御加護のことを取り上げます。神の御加護を求めるのは、人の弱さからして当たり前のことです。でも戦勝祈願となるとどうでしょう。日本も明治維新後、日本国の確立をもとめ戦争の世紀に入りました。

昭和20年、主要都市は空襲で焼け野原になり、廣島と長崎に核爆弾が投下されました。最も被害が激しかったのは沖縄でした。日本は負けました。終わったのです。負けたと言わないで、終わったとしたのです。誰がと言えば日本人です。明治維新以来、日本は戦争の連続で日本人は好戦的とされたのですが、日本人はなるべくなら戦いたくない〈消極的和〉の持ち主だと思います。〈誓う〉という積極性はないのです。