9月に88歳にになって、よくぞまあ、というよりは、よくもまあ、という思いがします。祖父、父親が43歳で死んだので、自分もそのくらいの寿命かなと思ってきました。40歳の時に4番目の子どもの星子が生まれました。普通の、というとおかしいですが、一目でダウン症とわかる児でした。この子と共にという気が昂(たかぶ)る思いがしました。
星子は8歳のとき、白内障の手術の後、風邪をこじらせたか、と思っているうちに突然と思うほど急に、目が見えなくなり言葉を失って、自分で食べることを始めとして、一切のことをしなくなったのです。何が起きたのか、呆然としましたが、母親はそんな暇はないというように、上の3人の子どもと同じように、星子の世話に明け暮れしました。1970生まれの長男をはじめ、末っ子の次女は1973年生まれで、詰まった歳の三人の子どもと星子を、母親は当たり前のように育てた。女は三界に家無し、だからここが私の唯一の居場所と思っているかのような母親にとって、星子は文句なく、その居場所の一人だったと言えます。
私はと言えば、金稼ぎの必要もあって、外に出ずっぱりの状態でした。金稼ぎと言っても、肉体労働ではないので、家にいるときはその用意をするのに追われ、子育てを含めた家事にかかわることはありませんでした。そのことで何か言われた記憶はありません。亭主は大事な金稼ぎをやっているのだから、そっとしておく、というのではなく、私が家事や子育てに関わる必要がなかったのだと言えます。
今は、主婦の眼は相かわらず光ってはいるものの、私は凖主婦で、家事担当です。母親は星子の世話担当で、おむつ替えと一日二回のおじやを食べさせます。星子は歯はあるのですが、噛み砕くことはせず丸のみにします。このことも不思議の一つです。星子の不思議は、寝ているときや朝方起きているときにも、うふふと笑うことと、泣いたことがないということです。音楽をかけていれば、寝そべったまま聞いていますので、手がかからないといえば、ほんとにそうだなと思います。
音楽は多量のCDを収められる機器に、父親の好みが多分にある曲を組み込んで、アットランダムにシャッフルした音楽を四六時中かけています。ただし機器が選ぶのは一楽章や一節なので、星子は満足しているのかなあと思うものの、星子は頭をアンプにくっつくようにして、仰向けに寝て聞いています。お腹が空くと立ち上がって、歩いて5メートルくらい先の炬燵に入ります。それで炬燵は夏でも出してあります。
1968年に東大闘争がはじまり、東大という権力の温床が闘う対象とされました。私は助手になって一年未満という立場でしたが、助手は大学という権力機構の一員かというと、身分保障がなく、さりとて大学で働く職員かというと、職員から、とんでもないと拒否されるような存在です。私も東大闘争は学生運動の新しい形と、とらえました。ただ学長告示が出て、学生の安田講堂占拠が始まると、助手は黙っていていいのかという機運が生じて、7月に全学の助手に呼びかけた集会をひらいて、全学助手会をつくりました。
その助手会の名前で、新たに出た8・10総長告示に対して、私が総長告示批判を書くという役割になり、うんうん言いながら、長文の批判を書きました。助手が助手会をつくるということは前代未聞のことで、名前も顔も伏せた覆面組織でした。ただマスコミに対処するスポークスマンが一人必要だということで、私がその役割になり名前を出すことになりました。
東大闘争の〈自己否定〉が言われました。自分が東大生であることを否定することに端を発しています。助手にとっても深刻な提起です。私にとっても、なおざりにできない問題です。ただ、自己というと、1967年に中根千枝の『タテ社会の人間関係』が出て、そこで日本人は引き延ばした餅のようだ、という指摘がなされました。日本人は〈あなたとわたし〉はつながっているというのです。
個人はその土台の上に立つ一人です。神の前で一人立つ個人とは、よほどというか、まったく違うのです。1945年の太平洋戦争の敗北のあと、米軍の進駐のもと。新しい、個人に根ざす、憲法をはじめ諸法律の改定がなされましたが、それはすべて、〈個人〉の概念の上に立つものでした。この概念は自由と民主と言い換えられます。ただ実際にある自由民主党が個人の概念の上に立つ政党なのか、どうして国民の支持が根強いのか。
やはり、わたしたちは存在というより関係が先立つ心情の持ち主だという気がします。私はそのような日本人について二者性という言い方をしました。
