教育とか福祉について考える(1)

未娘の星子のことについてお話ししながら、教育や福祉のもとになる人間観というようなことを考えていきたいと思うのですが、星子と暮しながらはじめてわかったこともありますし、星子が生れる前から考えていたこともあります。何をご大層にと思われるかもしれませんが、それでもやっぱり自分のことについて少しお話ししたいと思います。たいてい自分を語るなどということは、功成り名を遂げた人のすることでしょうが、お許し下さい。それから星子の周りの環境についても、少し語らなければなりません。

どうしてこのような話の進め方をするかと言いますと、私は人に教授するような理論をもっていませんし、また、もとうともしないからです。ただ、自分の考えてきたことは、自分の体験に関係があると思っており、しかも、お前の考えを聞きたいと言われると、まだまだ考えを体験から抽出して、きれいなかたちにするということができていませんので、どうしても体験そのものを語るようになってしまい、理路整然としたお話にはなりません。その点は前もってお許し下さい。

29歳で大学を出るまで

私は今、50歳になりますが、大学を出てからはまだ20年くらいにしかなっていません。大学を出たのは29歳のときです。それから大学院に行くことになるのですが、大学を出るまでになぜそんなにかかったかと言いますと、高卒後、浪人が1年、大学は留年などを含めて6年在学で、残りは小学校を卒業するのに要した年数です。振り返ってみて、小中学校時代は、ある意味では、大変珍妙な、得がたい体験をしたと思っています。当時は、そんなに変った事態とは思っていなかったように思うのですが・・・

私は1936(昭和11)年生れですが、3つ違いの1939(昭和14)年生れの弟と、小学校6年のときから一緒になりました。学校に頼んで、一緒のクラスに入れてもらったのです。中学校でも3年まで同じクラスにしてもらいました。その弟の上に1937(昭和12)年生れの弟がいるんですが、この弟はどんどんというか、普通に先へ進んでしまうわけです。

私は6人きようだいのうちの2番目で長男です。つまり姉がいます。私ぐらいの年齢の子をもつ親は、まだ長男がどうのこうのと言います。父親は1949(昭和24)年に死にましたから、余計、そういうことを言います。別に商売をやっているわけでもなく、あとを継ぐような家業はないのですが、意識の上でというか、慣習上というか、例えば法事のときなど、長男は必要なのですね。頼りにする、ということもあります。そういう長男の役割は、私の場合、すぐ下の弟がやるようになります。私は大変楽になったかわりに、無責任という面も出てきたと思います。ぼんやりしていられるという意味で総領の甚六になったわけです。私は、赤ん坊のときからどこまで育ち上るかわからなかったのです。大学などはとうてい行けるような状態ではありませんでした。喘息と、父親からうつった結核で、幽霊のようになり、あだ名も「ゆうれい」というのです。戦後、自分で注射をうてるようになると、アドレナリンを多用しましたので、そのせいもあって、真っ青な、ろう人形のようになり、それで「ゆうれい」と言われていたのです。

もろにあじわったいじめの感覚

小学校5年の1学期の終りから休み始めて、延々3年半休みました。復帰したのは6年生1学期のはじめで、5年生の2学期、3学期はとばしてしまったことになります。それで、弟と一緒のクラスにしてもらうのですが、弟も嫌だったろうと思いますね。学校のほうも、いくらなんでもまずいのではないかと言ったと思うのですが、どうして実現したのか、事情はよくわかりません。兄のほうはあまり学校に来ないだろうし、授業についていくとなったら、何をやっているか弟に教えてもらうことができるだろう、弟が引っぱっていくだろう、というようなことだったのでしょうか。それから私は「あんちゃん」と呼ばれることになりました。先生は、そういう言い方はやめろと言っていましたが、中学校の間も、ずっとそう呼ばれていました。このあいだ、何十年ぶりに、このときの小学校の先生を囲んで同窓会を開きました。そうしたら、先生は私と5つしか違わないということを発見して、びっくりしました。

まあ、こういう珍妙な事態も、やってみると慣れてしまって、クラスのなかでは、別に大したことではなくなってしまうのですね。「慣れ」というのは、人間の生活に、大きな比重を占めていると思います。良い意味でも悪い意味でも、慣れ親しむということは、大事なことだと思います。もちろん私は、異分子を排除する子どもたちの残酷さも、もろにあじわいました。いつまでたっても私は異分子ではあったけれど、その上での「慣れ」と「親しみ」というのは、でき上っていきます。

そっと生きるという人生感

大学を目指す弟とは、高校進学のときに別れました。私にとって大学は無理となると、将来どうするかということになりますが、面倒をみようというお茶の先生がいて、それは、その先生をのちのち支えるように仕込む、という筋書きだったと思います。生きていくだけでも、もうけものだとしても、生きていくかぎりは、何か職業をもたないといけない。でも、なるべく責任がかかってこないで、いつでもドロップアウトできるような仕事がいいだろうと、母親も考えていたようです。そのまま進んでいれば、多分、今とは違う人生だったでしょう。ところが、高2の頃、喘息がずっとよくなってきたことなどがあって、大学に行こうかと考えるようになり、それからいろんなことがあって、結局、ある意味では母親の思い描いた、ソッと生きるというのと、そんなに違わない境遇になりました。つまり、私は大学の万年助手になったのです。助手は、一人前とみなされませんから、そういう扱いに辛い思いをする人もいます。でも、大学運営について責任がないという点では楽です。

地位というものには、責任と負担がかかってきますから、その重さをきちんと考えたら、誰も地位を求めなくなるでしょう。あるべき市民社会では、行政の担い手や行政の長を、抽選と持ち回りで決める他なくなるというのは、そういうことを意味しているのです。極端に言えば、総理大臣のなり手がいないということです。今は随分、逆のようですが・・・。ただ現在は、助手や平社員からぬけ出そうとしたら、随分気をつかわなければいけない。だから、ぬけ出そうとしなければ、ものおじしなくなります。例えば市役所とか、学校の先生で、上の地位を求めないという方たちに会ったりしますと、非常に強いものを感じますね。あまり右顧左眄しなくてよいことからくる、市民的強さがあります。まあ、助手というのは一人前じゃないんで、今一つ、頭を真っすぐ上げていられない、という心理的ひけ目のあるところがちょっと違いますが・・・

私は、父親の死んだ歳の45歳までも、まさか生きるとは思っていませんでした。それを突破したものですから、母親などは、大変めでたい、お祝いしなくてはと言い出すような有様でした。その私が子どもを4人ももつようなことになったのです。そんなに元気になったのは、ひとえに私のおかげであると、妻は言いますが、ほんとうにその通りかもしれません。

4人の子どもに恵まれて

私は、子どもに恵まれていると思います。上が高校2年の男の子、次から女の子3人で、中3、中2と続き、未っ子が10歳の、今小学校2年生です。父親ということでは、子どもがどうのこうのという前に、私は自分自身のことが大変で、自分のことにかまけています。自分のことさえ、どう扱っていいかわからない、というようなところがありますから、そんなに、子どもにちょっかいを出すことはありません。それに、自分の生き方が模範であるとはとうてい言えませんので、子どもたちに、積極的にもの申すというわけにはいきません。母親の方は、瀬戸内海の島から、中学校を卒業して単身東京へ出てきてお手伝いさんをしたりする、大変豪気な、母親そのものというような感じの女です。母親というのが、みんな豪気なのかどうかわかりませんが・・・。例えば、「三つ子の魂、百まで」と言うでしょう。三歳までに、基本的な性格はでき上ってしまう。その三歳のところで、子どもとのそれまでの関係を切ってしまうようなところが、彼女にはあります。これは、豪気と言えなくもないと思います。具体的には、また赤ん坊が欲しい、もらって育てようか、と言ったりします。赤ん坊に執着があるのです。しかし、赤ん坊はすぐ育ってしまい、赤ん坊でなくなってしまうというわけです。

私は今、水俣の調査をしているのですが、天草の方の島へ渡ったりすることがあります。その一つの御所浦島という島で、ずっと話を聞いている漁家があります。その家のおばあさんには8人の子どもがいて、それが見事に2年おきに生れています。「どうされていたんですか」と一歩踏みこんて聞くと、「何もしません」と言うのです。避妊など考えたことがないと言います。つまり子を産んで1年間生理がなく、最初の生理がきて、その次の排卵で妊娠しているというのです。見事な周期ですね。よく3年周期と言いますけれど「三つ子の魂」とぴったり含って、子どもは否応なく母親の囲い込みから解き放たれることになるというわけです。

妻は素朴なほうだと思いますが、いろいろな教えが頭のなかに刷り込まれているようて、3歳の反抗期がないと子どもはうまく育たない、というのも、その一つです。反抗するから母子開係が疎遠になるのか、疎遠になったことに子どもは反抗するのか、見ているとどうも前者のようでもありますね。3歳まではおもちゃ扱いで、それこそ猫っ可愛いがりですが、反抗しはじめると、嫌になってしまう、というような感じです。私たちの場合は御所浦のおばあさんと違って、もう自然周期はくずれていますから、年子で生れたりします。だから、次に生れる子どものための知恵として、子どもと疎遠になるというわけでもないだろうと思います。子どもが反抗しはじめると、ベタぼれの熱が自然にさめるというような具合で、それが非常に新鮮に思えました。

もう一つ、私たちが恵まれているというのかわかりませんが、子どもたちの欲望が薄いということがあります。地団太踏んで、あれが欲しいこれが欲しいと、泣きわめくようなことがありませんでした。もし、これが親の影響と言うなら、私はあまりしっかりしていないので、母親の影響ということになります。今、上の3人の子どもたちは、そうさせてくれなかった、士台、封じられていたのだと言いますが、どうもそれだけではないようです。

早期教育で失なうもの

子どもたちみんなに共通して言えることは、離乳期から、来る日も来る日も「おじや」を食べさせられたということです。とにかくモノトーンの食事だったということです。人参のすりおろし、豆腐、白子干し、卵、ほうれん草、それに味噌と、これを全部たたき込んだものを毎日食べさせます。4人ともそうです。栄養的にはいいんでしょうが、あの色鮮やかな、ままごとみたいに小ぎれいな、市販の離乳食のイメージとは程遠いですね。味噌と卵で、茶色いような、黄色いような色合いです。これも何か妻が自分の覚えていることを再現しているような感じでしたが、これを毎日食べさせました。子どもたちの欲が簿いのは、ひょっとして、この食事が開係しているかなと思ったりします。およそ、欲望を刺激するような食事ではありませんね。

フランスのエコロジストたちが日本にやってきましたが、彼らは肉類を食べない。なぜかと問うと、肉食が闘争的な人間を育てるからだという。それに比べると、私たちは食事と性格がどう関係するかなどは、考えていないと思うのです。食べようと思っても肉は手に入らないのだから、考える必要はなかったということかも知れませんが・・・。ただ、私たち夫婦の場合は極端だとしても、玩具を含めて、赤ん坊が出会うものは、あまりに意図的に、いろいろな欲望を刺激するようにできすぎていると思います。

早期教育・早期刺激の、ある面での正当性が、むやみやたらと肥大化されて、子どもを年がら年中、針でつついているきらいがあります。亡くなった民俗学の宮本常一さんは「進歩することによって退歩してしまうものもある。その退歩してしまったものの大切さも考えないといけない」と言いましたが、赤ん坊や幼児を刺激することによって失われるもの、そのことを考えざるを得ません。

その関連で思い出すことがあります。私は1945(昭和20)年に国民学校3年でしたが、この年、授業はほとんどありませんでした。中学校以上では、正式に授業は停止していました。国民学校は除外されていましたが、それでも授業はなきに等しかったように思います。私は学童疎開のすぐ下の家族疎開世代です。家族が東京から福島に疎開して、私も、喘息のためにあずけられていた千葉県の外房の家から、会津の家族に合流することになったのです。1945(昭和20)年をはさんで、前年の半ばがら翌年にかけて、学校教育はズタズタの状態だったと思います。そういう子どもたちが今、50歳くらいになり、社会のなかでいろいろな役目を果たしているのですが、この世代の人たちに、学校教育を受けなかった弊害が出ているでしょうか。そんなことは正確に測りようがないので困りますが、まあ、直感的に、読み書きソロバンの面で他の世代に劣っているようには思えませんね。

国家の都合によって、学校教育などは、このようにいとも簡単に放棄されました。しかも、私たちの成長は、そのことによってそんなに妨げられていない、影響を受けていないということであれば、学校教育なにするものぞと、学校教育に対する評価の低下、相対化がおこります。専門家が教育の重要性を一生懸命言いたてるなかで、私たちの世代は、どこかそのようなことを信じていないところがあるように思うのです。私はまた、家で独学することが多かったので、特にそう思うのかもしれませんが・・・

障害のある子と家族の関係

さて、末娘の星子のことですが、1976(昭和51)年に生れて、ダウン症、正確に言うとダウン症らしいのです。というのは染色体の検査をしていないからです。外形的特徴、体質などから、まずダウン症であることに間違いないのですが、直按の検査はしていません。わかってどうなる、という気持もあります。それから、担当の女医さんが、それもそうだと同意したこともあります。

ただ私自身、生物をやっていて、今は人間のほうが好きになり、水俣病の最大の被害者である漁民の聞きとりを主にしていますが、前は魚類の比較内分泌学と言って、うなぎを相手に仕事をしていたのです。それで、そういう経歴の者としては、染色体が普通は一対あるところを、ダウン症のように1本余分にある人が生れてくるというのは、第一感として、珍らしいとか貴重だとか思います。この思いは、大変危うい面も含んでいます。つまり、人間を生物学上の興味の対象として見る危なさです。しかし、人間の23対ある染色体のうち、No.21以外のトリソミー(3本組み)というのは確率的に大変低いので、逆に言うと、なぜNo.21だけは3本あっても生れてくるのだろうという疑問をもちます。

生れてくるというのは、「生命に欠けていない」ということを意味します。不完全な機能という言い方はできますが、生命というのは、全か無か(all or none)で中間がありません。その点が、実は地球上に、無機物質から有機物質が合成され、そこから生命が誕生してくるときの一大難問なのです。有機物質と生命の間には画然とした飛躍があって、なだらかな移行ではとうていあり得ないのです。染色体のある対の3本化ということで言えば、No.21の染色体の場合以外は、なかなか子宮に着床できないのか、着床しても育たないのかわかりませんが、生れ難いことは確かです。ところが、染色体No.21の場合は生れてくる。生れてくる自然さのうちにあります。

そういう意味では、サリドマイド児にしても、胎児性水俣病の子どもたちにしても、やはり生命力があるというのか、生きていく自然さの枠内にあるというように思われます。それで、見方が逆転するかもしれませんが、生れてきたこと自体が大変貴重な感じがする。そしてそれは、障害があればこそなのだ、とも言えると思うのです。先天性四肢障害をもつ子どもたちにしても、胎盤を通過した有機水銀で脳をおかされている子どもたちにしても、「よくぞ生れてきたなあ」という感じがあります。

生れてくるまでの過程は、それこそスキーの大回転競技のような関門が随所にあるわけですね。排卵、受精、輸卵管内移動、そして子宮に着床できるかどうかという大きな関門です。そういう一つ一つの関門をくぐりぬけてくるのです。生物の発生は、そのものすごい速度まで考えると、神秘そのものです。生物を学ぷということにメリットがあるとすれば、まさにこういうところであじわうスピードと変化がかもし出す、神秘感かもしれません。

ダウン症の子どもをもつということは、一つには、単に確率上のめぐり合わせというだけのことです。その確率は多分、世界中で同じなのでしょう。そしてもう一つには、単に当ったというだけではない、貴重な子どもが生れてきたのだという感慨をあじわうことであります。そのことと、それから先、その子どもが、あるいは親子が、家族が、どれくらい生き難くなるかは、さしあたり別問題です。

見られることから見ることへ

私の場合は、さらにもう一つ、ひそかに、障害のある子どもがもてたらなあという思いをもっていたことです。これは言うのがむずかしくて、不遜に聞こえたり、誤解されやすいところなのですが・・・

私は大学闘争に関わって、それに引き続いて、というより尻つぼみながら闘争の一環として、東大教養学部で、「闘争と学問」という連続シンポジウムを、少人数の教師と多くの学生、市民の人たちとともに開いていました。そこではじめて障害者と出会うことになります。『さようならCP』という映画(映画『ゆきゆきて、神軍』をつくった原一男・小林佐智子コンビの第一作)がその頃つくられて、そのパンフレットに文章を書いたりしました。障害者に関わる、はじめての文章です。この映画は、CP(脳性マヒ)の主人公が町に出て生身をさらすという、言わば強烈なボディ・プロパガンダでしたが、『青い芝の会』の第二弾というか、障害児殺しの親に対する地域の減刑嘆願運動に抗して、それは結局、障害児殺し容認につながるという糾弾に続いての運動だったのです。

この映画の主張は鮮烈でした。CPである自分たちが他人を見ることができないのは、自分たちが充分に見られていないからである。見られることに耐えられないから、人を見ることができないのだ。町に出よう、バスに乗ろう、自分たちの姿をまず人なかにさらそう。つまり「見られることから見ることへ」という運動でした。

私は、それから、いろいろな障害者に出会うことになります。なかでも衝撃的だったのは、筋ジストロフィーの子どもたちでした。人生としての成長過程が、実は不可逆的に病気が進行していく過程であるというのは、何とも残酷です。しかし私は、同時に、否応なく真正の明るさにもぶつかることになりました。そして、ここが言い辛いところなのですが、自分がもしそういう子どもをもつとしたら、その明るさにもう少し近づけるのではないか、と考えたりしたのです。

私は、いろいろな運動に関わって、社会改革を志してきたのですが、やっぱり何か芯が欠けている「根なし草」であると思わざるを得ず、しかも、自力でその芯をもつことができない。虫の標本か何かのように、ピンでぐさりと板に張りつけられでもしたら、少しはまともになるのではないか。それはほんとうに大それた、一歩あやまれば甘えた態度になりかねません。しかし、自分の努力だけではとうてい叶わぬこともある、という予感に導かれて、私は新しい世界に、一歩踏み出していたように思います。

びっくりした妻の言葉

そういうなかで、星子が生れてきます。ダウン症候群が、こんなに幅が広いとは思っていませんでした。先頃、新潟に行って『共に生きる会』の方たちにお会いしたのですが、そのときのことです。お父さんの一人が、ダウン症というのは、ダウンするという意味だと思っていた、と言うんですね。「いつダウンするか症候群」というわけです。そのお子さんは3歳で危ないと言われ、それを生きのびたら、6歳でもダメと言われたというのです。それも突破して、今は筋肉隆々の青年になっているそうです。「いつダウンするのてしょうかねえ」と、お父さんは嬉しそうに笑っているのです。

家に帰ってこの話を妻にしました。「あら、ダウン症っていうのは、知恵がダウンしているという意味でしょう」というのです。びっくりしました。ちなみに、ダウンというのは、人の名前です。まあ筋肉隆々というのは、やはり軽いほうなのでしょう。星子は重いほうに入るのだろうと思います。

星子は今、10歳になるのですが、まだ哺乳ビンから牛乳を飲み、言葉は全くありません。それに、ものを噛むことをしないので、毎日毎日、相変らず例の栄養満点のおじやを丸のみにしています。この頃は、普通の丼もののようなご飯も、丸のみにして食べます。1日に2回食べます。星子の夏眠、冬眠と私たちは言っていて、夏眠のほうが激しいのですが、夏にはほとんど食べなくなります。食物の好みは、極端にせまいと思います。

おかしいのは、甘いものを食べないことで、人間というのは、甘いものに対する本能的要求があるだろうなどと思っていましたが、星子は受けつけません。そのせいかどうか、虫歯は1本ぐらいしかありません。それも、ついこのあいだ見つかりました。歯みがきは、何もつけないブラシでこすります。口を開けるのに随分かかり、今でも不承不承開けています。

歩くのはそんなにできません。体がやわらかく、ペターッと折ることができるので、足の親指を口のなかに入れて遊んだりしています。そういう姿勢をさせては、歩けるようにならないと言われます。何にかぎらず禁止するということに私たち夫婦はどちらも消極的ですが、そういう姿勢をなるべくとらないように、気をつけているつもりなのです。しかし、星子にはお気に入りの姿勢らしく、結局は相変らず身体を2つに析っています。多分、安心できるからかもしれません。

はっきりしている拒否の意志

去年から星子は小学校の肢体不自由児クラスに入りましたが、知識教育という意味では、教育不能だと思います。それより大きな意味の教育でも、何か教え込むということでしたら、大変むずかしいと思います。ものすごくガンコで、堅固な意志をもっているようです。どんな能力が隠されているのかわかりませんが、意志だけは、拒否の意志だけははっきりしているように思われます。

子どもの自主、独立の気概は、おそらくは、ほとんど拒否の意志として表明されるのではないでしょうか。だいたい教育というのは、この気概を、どのようにうまく伸ばすかに本義があると言ってもいいと思います。しかし、星子の場合、どうしたらこれを伸ばせるのか、容易にわかりません。例えば、星子は二階に寝ていますが、一人で階段を降りたり、上ったりすることができれば、家族もだいぶ楽になる、星子も楽しかろうと思います。それで、手とり足とり教え込もうとしますが、ガンとしてダメです。ところがある日、突然下にいるのでびっくりしてしまい、それで二階に上げて見ていますと、後向きながら、一歩一歩降りてくるのです。

それから公園のすべり台です。すべり台の階段は大変こわいですね。幅のせまい鉄の板で、間隔もだいぶあります。そこを、一段ずつでも何とか上れないかと、上の子どもたちが星子を引っぱり上げたりしてだいぶやったのですが、ダメでした。

それが、一昨年(1985年)の11月23日のことでした。何かやり出すと感動的ですので、どうしてもその日にちを覚えることになりますが、アッと言う間に上るんですね。実に憎たらしいというか何というか。そのときの筋肉の強さ、耐える力というのは抜群でした。いつもは4、5メートル歩くとへたり込んでいるのに、最後に一番上の台に上がるため、体をもち上げていくときのふんばり方は、目を見張るようでした。すごいがんばり方です。降りてくると、さっそくまた階段にとりつき、あきずに繰り返していました。こういうように、突然何かをするのは、その前に教え込もうとしたことがやっぱり効いているのでしょうか。

よくわかる子とわからない子

今、何かして欲しいという意志表示は、親や兄、姉の手をもって、そこへ行こうとします。テレビをつけろとか、寝に行こうとするときは、ストーブを消せとかします。冷蔵庫に手をもって行くのは、牛乳を飲みたいときです。そういう様子を見ていると、この子はわざとしゃべらないんじゃないかと思えるくらいで、しゃべれないという感じではないのです。

しゃべりたいときがくるまでしゃべらない、というような意志が伝わってくるみたいで、ほんとうによくわからない。そのわからないということがよくわかるような、おかしな感じです。でも、こういう感じというのは、実は子どもという存在に対してもつべき、基本的な見方だと思うのです。子ども観の基本には、「よくわからないことだけはよくわかる」というのがあるのではないでしょうか。

ところが、多くの子ども、なかでも普通と呼ばれる子どもたちは、悪く言えば親や社会に迎合し、こびへつらいが早くから始まります。そういう子どもばかりを見ていると、つい、わかったような錯覚に陥るわけです。私も、上3人の子どもについては、よくわからないと思うよりは、たかがしれていると思いがちです。そして、このことが、実は大人や親を待ちかまえている一番の落し穴ではないだろうかと思います。

迎合とか、こびへつらいと言うと、語弊があるかもしれません。拒否する心をうまく隠す能力が、と言ったほうがソフトになるのでしょう。しかし、隠し統けていく一方で、怨みが蓄積していくかもしれませんし、あるいは、あまりうまく隠しすぎて、拒否することを忘れてしまうかもしれません。この能力も、発達しすぎると問題です。ただし、この能力は、うまく生きていきたい、親や社会とうまく折れ合って生きたいという意欲と直結してることに、注目する必要があります。

教育とか福祉について考える(2)につづく


明日もまた今日のごとく・
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