教育とか福祉について考える(2)

教育とか福祉について考える(1)からのつづき

能力とは主体的意志である

能力という言葉は、いろいろに限定しなければ、何を意味するかがはっきりしません。能力というのは無数の分野に広がっているので、それだけでははっきりしないのです。そればかりではありません。能力はどのように引き出されてくるのか、発揮されるのかという問題が別にあるのです。つまり、環境が重要な役割を果たします。

ピアノを弾くというとき、ピアノがあるかないかという環境と、ピアノを弾く気になるかどうかという環境があります。ピアノがなくては、あるいはピアノがあってもピアノを弾く気にならなければ、「ピアノを弾く能力」は発揮されない、あるいは気づかれないでしょう。ですから、能力というのは、ほとんど潜在的なものです。能力があるかないかをはっきりさせるのは大変むずかしいので、とりあえずは潜在的であるという他ないのです。

「子どもの可能性は無限大だ」というのは、そういう意味です。誰でも偉大な芽をもっているのだから、うまく伸ばせば、みんなすごくなる、ということではないのです。能力があるかないかわからない。それは親が見てもわからない。環境整備もある役割しか果たさない。つまるところ、本人の主体的な意志、意欲に関わっているという他ないのです。

能力とは潜勢力、すなわちポテンシャルです。水は高いところにもち上げられると、その分だけポテンシャル・エネルギーをもつことになります。あるいは、高地にあるダムの水は、低い川の水に比べてより大きなポテンシャル・エネルギーをもっています。しかし水がそこにとどまるかぎり、ポテンシャル・エネルギーをもっていることはわかりません。はけ口を求めて落下してはじめて、エネルギーは発揮されます。能力とはそういうものです。ほとばしるには意志、意欲がいるのです。

大人が能力判定テストなどと称して、ちゃちなテストを試みるとき、子どもがそっぽを向いてしまえば、やる気がなければ、能力のほんのある部分を測るにしても、それさえできないということになります。そういう子どもの態度を見て、この子には今測ろうとしている能力はないのだと決めつけるとしたら、大変なことです。事実は、大人が子どもの気持も何もおかまいなしに、「これをしなさい」と言ったとき、子どもがそれに従おうとしなかったと言うにすぎないのです。だから能力判定テストと称するものは、大人への服従度判定テストにすぎないと正直に言うほうが、納得できます。

子どもの意志、意欲を尊重する

子どもに第一に要求することが、大人への服従だとしたら、近代の人権とか児童憲章などは、全く受け入れられていないということになります。人権感覚の根本は、個人の意志を尊重し、個人の主体性を認めることです。大人にはそれを認めて、子どもには認めないというわけにはいきません。子どもは主体になるように成長していく存在ですから、その成長過程の主体性を認めなければ、子どもはついには主体的人間にならないのです。

アメリカの独立宣言を継承している日本の憲法は、したがって、その源流をロックの「市民政府論」に求めることができるのですが、そのなかでの子どもについてのロックの思想のポイントは、「子どもは、成人するとき、現前する社会を選ぷ権利がある」というものです。大人が、よしよしお前も大人になったのかと、成人に達した子どもを、自分たちの社会に迎え入れるというのではありません。子どもは、成人になったとき、大人の社会についてイエス、ノーを言うのです。私有財産制にもとづく立憲君主議会民主制であるかぎり、子ども(ゼントルマンの子どもでしょうが)は現前する社会にノーとは言わないというのが、ロックの確信でもあったのですが・・・。しかし、少なくとも民主主義社会において、それを構成する人々の主体的意志がまず重んじられるというのは、画期的な思想でした。そしてその根本的な感覚は、当然ながら、日本国憲法にも、児童憲章にも、教育基本法にも反映されているはずです。

例えば憲法26条を見てみましょう。すべて国民は「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」という有名な条項です。能力という言葉の頼りなさをわきまえていれば、自然に、この条項の問題点は「能力に応じて」というところにあると思いつくはずです。いったい誰が能力を判定して、その判定された「能力に応じて」どいうことになるのでしょうか。

能力というのは、にわかには測れない、七面倒くさいものですから、たとえ専門家であろうとも、他人が能力を測ろうとすることはできません。とすると「能力に応じて」を判断するのは、当の本人以外にはあり得ないということになります。そして、本人こそまた自分の能力についてわからないのですから、結局は、能力の発揮と密接に関係している意志とか意欲が基準になってくる他ありません。ですから「能力に応じて」を「意欲にもとづいて」と読みかえれば、意味ははっきりしてきます。

アメリカの大学は、入るのはやさしいが出るのはむずかしく、中退者が多いと言われます。しかし中退者も、大学で勉強しようと思い立ったその意欲が評価されるので、別にマイナスではないのだと言われます。意欲があるからと言って、ある能力がそれに伴うわけではありません。あたり前のことです。ただ、ある分野の能力が自分にはないということを、自分で納得することが大事なのです。

これは、しかし、高等教育の場合のことです。初中等教育では、まさに意欲にもとづいて勉強していくことが保障されることが、教育を受ける権利を構成しているのだと思います。そして、意欲のあるなしは個人の側の問題なのですから、意欲がないほうが劣っているということにはなりません。その感覚がしっかりしていれば、算数の問題を解いてしまった者が、教室のうしろの理科玩具で遊んでいたり、あるいは飛び級で上の学年のクラスに入ってもいいわけです。教師の基本的任務は、各生徒の意欲にいつも心を配っていることだ、ということになりましょう。

障害児の意志も認めよ

残念なことに日本では、「能力に応じて」は全面的に他者判定の問題とされ、排除原理になってしまいます。その排除原理が、小学校入学のときに働くというのは、実に驚くべきことです。文部省は、排除などとはとんでもない、それぞれの子どもがそれぞれの発達を充分とげられるように、伸びる能力も伸びないのでは可哀相だから、養護学校義務化が施行されたのだと言います。

これこそが大きなお世話で、個人の主体性無視の論理なのです。能力を伸ばすか否かは、究極的には個人の勝手なのです。そのことを主張すると、例えば養護学校への措置の撤回を求める長崎訴訟などでは、文部省はついに、養護学校に行く義務だけは、戦前の、教育を受ける義務と同じ義務なのだと言い出します。

ご承知のように、今の義務教育の義務は、親や社会が子どもに対して負っている義務なのですが、障害児にかぎって、子ども自身に義務があるのだと言います。これは、もう差別以外の何ものでもないのですが、見方を変えると、どんな子どもも、そのもっている能力はその個人のものではなく、社会のものだという考えが投影されているのだと言えます。だから、個人のもっている潜在的能力を伸ばすも埋れさすのも個人の勝手だというのはとんでもない、すべからく、能力は社会のために役立てられなければならない。能力に欠ける者は、社会の迷惑にならないように、やはり最大限に能力を引き出されねばならない。例えば、一人で排便ができる、歩けるというのは、それだけ社会にかける迷惑を減じることになる、というのです。

人材とか人的資源とは、まさにそういう社会観のもとでの人間の見方なのです。戦前の日本は、天皇のためというスローガンによってそういう人間観が押しつけられたのです。そして現在は、資本をめぐる国家間競争のために、そのような社会観が押しつけられているのです。現在、社会主義と言われる国々でも、おそらく人々は、そのような人間観のもとでの宮僚支配を身にしみて感じているに違いありません。

真正の社会主義の埋念にあっては、人々は、自分自身のために、共同的な人間観を選択します。とはいえ「社会のため」すなわち「自分のため」というようにはなかなかなりません。そうなるためには、すべての個人がそれ自身として認められ、主体意志が尊重されねばならないからです。どうして各人の意志が尊重されねばならないか、結局は、そういうところに帰っていくことになります。

前に立たず後から支えていく

さきに、星子のことはよくわからないということだけは実感できるのだと言いましたが、それは多分、どの子どもでも同じことで、星子の場合は、それが特にはっきりしているのだと思います。そういう星子を見ていると、「七つまでは神のうち」と言われる意味が、実によくわかるような気がします。

わからない、奥深い存在に対して、どういう言葉をあてはめようかと考えて、人間はいろいろな言葉を創ってきましたが、神というのも、その一つだと思います。ですから、神はもともといるのだが、あるときそれに人間が気づいたのだ、と言ってもいいと思います。あるいは、人間がそういう存在を自分のなかからはじき出した(疎外した)と言ってもよく、とにかくまず人間の浅知恵などで測れないものを神と呼ぼうとしました。そして、子どもというものも、親の浅知恵などでは測れないものだ、少なくとも七つまでは、というような見方をしようとしました。

障害をもっている子どもも、それは情緒障害であろうと自閉症であろうと、わからなさという点では大変ストレートです。子どもはそういう存在であるということを、非常に正直に見せてくれていると思います。「三つ子の魂百まで」と言い、次に七つまではアンタッチャブル、よくわからないから、そんなにいじってはいけないと言う。

触れられないということでは、アメリカのコンフォートの妊娠15年説というのがあります。『思春期ブック』という題で富士見書房から出ていますが、大変良い本です。

セックスを禁じることはない、ハイティーンのセックスなどはいずれにしても大したことではない。ただし、避妊だけは徹底しなければならない。特に女の子については、言いわけはいっさいきかない。一に避妊、二に避妊、三、四がなくて五に避妊という主張です。なぜかと言えば、妊娠は十月十日の期間で終るのではなく、15年間続くものだと考えよ、妊娠とはそれほど大変なことなのだと言うのです。つまり、胎教が15年間統くと思えばよい。子どもとは、そういうものだと言いたいわけです。

胎教は子どもに直接働きかけることができないので、親は自己教育する他ない。子どもが15歳になるまで、親は、子どものために自分を一生懸命教育し、そのことによって、間接的に子どもを教育するのだと言うのです。これは実に大変なことです。だから、人ごとのように、「子どもができちゃった」などと言うのは許されない。まあ、耳の痛い話です。

コンフォート夫妻の性教育の骨子はこのようなものですが、「7つまでは神のうち」が、15歳まで延びてしまったようなものです。このような考えが現在のアメリカで出てくるのは、おもしろいと思います。このコンフォート夫妻は、夫婦愛についても、夫婦はお互いにお互いを丸ごとすべて受け入れるのだと言っていて、その点でも東洋的ではあります。

15歳まで触れられないというのはちょっとオーバーにしても、こういう「触れられなさ」を、日本では「子やらい」と言うようですね。子どもの前に立って、子どもを引っぱらないということです。ニワトリなどを巣に入れるときは、後からそっと追い立てないとダメです。それも、おどかしてはいけない。距離を保って少しずつ進む。江戸時代の子育ての原理に、こういう考え方があるのは興味深いことです。

後から追い立てる、と言っても、いろんなバリューションが考えられます。最初から目標を設定しておくという場合があります。ニワトリを鶏舎に追い込むなどは、その単純な例でしょう。大人が立てた目標に向って、子どもをそっとプッシュしていくか、あるいはムチをふるうか。

それから、子ども自身が歩くことを支えるやり方があります。目標はさしあたり問題ではなく、歩くことを重視するのです。歩くことに大人がもっぱら心を配るのです。

ある、安定した社会の必要性

この、自分で歩くということのなかに、聞こえは悪いけれど「盗む」ということが入っていると思います。技術を盗む、模倣する、まねをするなどです。

私が通っている水俣の漁民の世界では、もう最後の世代かもしれませんが、まだこういう歩き方が残っています。漁業は、教えようとして教えられるものではない、という考えが強いと思います。漁業というのは、第一に強大な筋力が必要です。それも耐久力と瞬発力とが両方いります。そして、こういう力と両立できないような、手先の繊細さも必要です。そして第三に、記憶と合理的な判断力に支えられたカンが必要です。これらを引っくるめた総合的な作業は、教えることができません。と言うより、教えて身につくものではないと言います。やはり、子どもが自力で獲得する以外に手はないのです。これは「子やらい」の一つの典型です。技術がむずかしければむずかしいほど、親(方)は子(徒弟)の鼻づらを引きまわすわけにはいかなかったと思います。

でも、こういうやり方が成立するには、非常に大きな権威とか道理があって、そのもとで、人々が安心していられる安定した社会が必要なのです。ここは言い方がむずかしいのですが、例えば私の守備範囲の生物学で言えば、生物で手がつけられていない、手のつけようのない問題は山ほどあります。例えば、今こうやって話している脳細胞の働きなどもそうです。なかでも、生物や人間の発生の問題はむずかしいのです。そして、研究が進むほどわからないことが出てきます。

一つわかったと思うと十わからないことが出てくる、といっても過言ではありません。そのような、生物の奥深さに対する思い、努力すると課題が増えていく構造に対する思いというのは、やはり、ある種の権威といったものを呼び出すのです。それが直接どのような権威かは言えないにしても、頭が垂れるような思いです。謙虚にならざるを得ないような思いの対極に浮かんでくる、ある何かです。あきらめとは違います。努力していくと奥行きが増してくる世界、人と自然と神との関係(私は今、あくまでも間接的に、事物のわからなさの照り返しとしての何か、という意味で神を言っているのですが)がより緊密になっていくような、また、前近代の伝統社会のなかにほの見えていたような、そういう世界です。

そういう社会では、子どもが歩くとき、その行先について、不安はないと言えます。だから、後からプッシュしているだけでよいということになります。

ところが、また生物学の話になりますが、これだけ生物のことはわかった、というように、わかったことのほうに力点をおくと、やはり人間の力はすごいということになります。わからないことは減る一方で、いつかわからないことはなくなってしまうだろう、という終着点を考えるようになります。そして、それがどんなに遠い未来であろうと、そう考えたとたん、実は、人間は不安に襲われてしまうのです。

人間は、人間が主役であることを突きつめていくことに耐えられない、と言ってもいいでしょう。それなのに、今は主役であることを誇っています。この根源的な非整合性、自家撞着にはまり込んでしまうと、子どもを見るときでも、もう心配で心配でしようがなくなります。

なぜ、大人不信におちいるか

子どもの背後でそーっと気を配っていれば、子どもは自然に育つだろうという、そういう自然の用がないのですから、人間が主人公であるとする文化・文明に、子どもを引っぱり込まなければなりません。しかも、引っぱり込むことの意義を突きつめれば、その目的を確立維持できそうもない、本質的な弱点をかかえていることが見えてきます。

これでは、子どもは二段階にわたって大人不信に陥ってしまいます。一つは、大人が自分たちを手とり足とりして、世話してくれる、その世話を通して、大人の自分たちへの不信をかぎつけることです。そしてもう一つは、そういう大人たちが、根底において自信をもっていない、整合性をもっていないことを見てしまうことです。

よく、目先のことにとらわれて、功利的に子どもを引っぱると言いますが、現象的には、そういう言い方は間違っていないし、子どもがそういう功利的な大人の行き方に反発しているのも事実です。しかし、根はもう少し深いのです。

「親はなくても子は育つ」という言い方を思い浮かべると、この事情がはっきりとすると思います。何かに任かす、任かせておいて安心だ、という世界を大人がもっていてはじめて、こういう物言いが出てきます。何に任かせているのかと言えば、自然の摂理であり、神でもあり、仏でもある。おおよそそういうものを全部ひっくるめて言っている場合もあって、そうはっきりしているわけではないのですが、とにかく「大丈夫」なのです。

「親はなくても子は育つ」は、「七つまでは神のうち」などとワンセットになって、何か大きな世界に包まれているのです。そういう世界のもとにいるからこそ、子どもは自由に振舞っていていいのです。つまり、子どもを信頼できる、子どもの主体意志を重んじることができるのです。

近代教育の三つの柱

歴史的に言えば、こういう大きな世界に内在する大きな権威を、ある種の人間グループがとり込んで、自分たちを宗教的、政治的権力に仕立てあげていきます。極端には神人、現人神(あらひとがみ)がそうです。特定の人間に体現されてしまった大きな権威は、権力主体となって他の人間に臨みますから、他の人間の主体意志は抑圧され、またそれを奪わずにはおかない、ということになります。

王権神授がそうですし、ディケンズの『二都物語』などを読むと、フランス革命直前の、そういう状態が頂点に達した有様がよくわかります。したがって近代が、すべての人々の主体意志の復権を、その出発点にもっているのは当然のことです。しかしその復権が、大きな権威の体現をよそおっている人間グループの打倒を越えて、大きな権威そのものの否定にまで進んで主張されたのは痛恨事であると、若くして死んだフランスの女性哲学者シモーヌ・ヴェーユは言います。ともあれ、人間の復権の一方で、産業資本の要請による適正労働力の育成、という課題が登場してきます。

近代公教育とは、この二つの柱、すなわち人間の主体意志の復権と適正労働力の育成ということをもって構想された、と言っていいと思います。なるほどその昔丈の低さに目をつけて、炭坑で子どもを酷便したのも産業資本です。しかし、人的資源として、そういう若年労働力を使いつぶしてしまうのはマイナスである、と考えたのも産業資本です。総じて、主体意志の復権にしても労働力の育成にしても、子どもを早く大人化してはまずい、という視点が導入されたと言えます。そして、次に登場してきた三本目の柱、すなわちナショナリズムの発揚をも合わせて、子どもの教育には、家庭とか地域は桎梏であるとみなされます。そこで子どもを地域や家庭から引っぱがしていく。すると、地域や家庭はそれに抵抗する、という過渡期が生じます。日本も例外ではありません。

要請されすぎる資本の論理

そういう流れからみると、現代の日本の公教育は、近代公教育の三本の柱のうち、一本だけが極めて肥大化されたかたちですえられているのがわかります。すなわち、資本の要請です。資本という言い方になじまない人もいるかと思いますが、工業文明管理化社会のカナメは、資本の意志、資本が動いていく冷たい必然のメカニズムなのです。

例えば、今の学校では、知識の詰め込みもさることながら、「忘れず、遅れず、さからわず」という三大規律の遵守を主目標としている、と言っても過言デはないと思います。これは、資本の意志に他なりません。そして、これは子どもが最も苦手とする規律でもあるのです。しかし、このような規律は、根拠なしに子どもにたたき込むことはできません。イデオロギーが必要です。このイデオロギ−にあたるのが、物質的な繁栄、快適さ、便利さが人を幸せにするという物質主義なのですが、しかし、これだけでは弱いということを、誰よりも教育行政を担っている体制指導者は、よくわかっているのです。そこで、新たなナショナリズムの涵養を考える必要が出てきます。しかし、戦前のようにストレートに天皇を導入することはできないので、いろいろ奥歯にものがはさまったような状態になります。

これは、私たちにも責任のある状態です。私たちがいいなあと思っている日本の「くに」、すなわち日本の風土と、国内的な資本主義の危機のゆえに強引な海外侵略にのり出した日本の近代国家との間のすき間を、克服する努力を怠っているとも言えるのです。私たちは、はっきりと「パンのみにて生くるにあらず」という課題にとりくむ必要があるのです。

「忘れず、遅れず、さからわず」はお前のためなのだと言って、暴力をふるう現在の教育は、物質主義、功利主義に立つがゆえに、子どもたちの心をとらえることはできません。精神主義のほうが、まだ子どもの心をとらえることができます。しかし、その集団催眠的効果の恐しさは、狂信的天皇崇拝主義とナチズムによって証明済みです。私たちは、そのような動きには、いくら警戒しても警戒しすぎるということはありません。

なぜ、子どもの意志の尊重が大切か

先に、どうして各人の意志が尊重されなければいけないのかという問いを出して、それに答えるべく話してきたわけですが、いよいよその結論にさしかかってきたと思います。

と言ってもたいしたことはないのですが、各人があたうかぎり、現実の社会のしがらみから自由になるとき、そのような個人が抱く考えは、物質主義でも精神主義でもなく、おそらくは人間的自然主義だろうということです。人間は意識をもち、言語をもち、過去を振り返り、末来を考えることができます。無限を意識し、完全さという観念をもち、そのゆえに無限を一点に凝縮、収斂させることができます。人間は自然さに近ければ近いほど、大きな世界のもとにおける自分の微小性と、自分の不完全性を意識し、ある大きな権威に向き合う意志をもつだろうと考えます。そのような意識と意志が、人間の生を根底において支えるのだと思います。

そして、子どものほうが大人よりも自然さに近いという見方をとるとき、各人の意志の尊童、とりわけ子どもの意志の尊重が大事になってくるのてす。子どもにおいてこそ、人間的自然主義は貫徹される可能性があるのです。それが人間の希望なのではないでしょうか。そのような希望を、私たちは自分の手でつぶしていないか、大いに反省を要するところです。

人間的自然主義の出発点

一言つけ加えると、人間的自然主義でいう、ある大きな権威とは、絶対の沈黙を守って、人間がどのように懇願しようと、何も言ってくれないことに注意しなければなりません。ルソ−がいみじくも言ったように、「神と私の間にあまりに人間がいすぎる」のが現状です。神の意を体したという人間が多すぎるのです。

日本で、「天皇」を持ち出すことの罪は、まさにここにあります。天皇の名によって、どれほどの体罰が学校や軍隊で行われ、どれほどの拷問が天皇制に抗した人々に加えられたか。どれほどの掠奪と凌辱が諸外国民に加えられたか。自国および諸外国において、どれほどの人々が死んでいったか。これらのことについて時効はありません。

一方、「天皇」に収斂していった貧しい人々、その意を汲みあげていると信じた若い将校たちは、急速に肥大化した金融資本、財閥を相手に闘おうとしました。すなわち、物質主義を否定しようとした結果がそうなったのだ、という側面も見逃してはならないと思います。しかし、その結果は極端な精神主義にもとづく狂信的天皇崇拝への道に走ったことは、誰もが知っていることです。しかし、水を流そうとしてタライまで流すのではなく、出発点に、物質主義否定と究極的な価値をどこに求めるか、という問いかけがあったことは忘れたくないと思います。

そういう否定と問いかけは、一義的に、必ず狂信的天皇崇拝を導き出すと主張する人は、まさかいないでしょう。天皇に関してすべてアレルギー的に対処していると、現在の物質主義がもたらしている病弊は、ますます深くなるでしょう。アレルギー的であることが、病気を進める原因ともなります。そして、特に子どもにとっては、その自然な人間性を無視することになります。

モーゼの十戒の第三戒に、「汝の神エホバの名をみだりに口にあぐべからず。エホバはおのれの名をみだりに口にあぐる者を罰せではおかざるべし」とありますが、一般に、人間的自然主義では、ある大きな権威に名前はついていないのです。ついていないことによって、普遍性を保っています。そのような普遍性のもとに、「天皇」を含むもろもろの神話的権威は、おのずから位置づけられるだろうと思います。

学校へ行く義務とは何か

星子の話にもどりますが、星子は、大変正直です。自分から変に大人化することが全くないわけで、それは非常に大切にしたいと思うのです。そういう子どもが、現行の社会的しきたりとしての「六歳になったら学校へ」ということに自動的にまき込まれていいものか、という感じがあります。待てしばし、と考えます。その点、私たち夫婦はしあわせです。自動的な学校行きがそこにあるのでは感激が薄れてしまうのですが、何事でも、子どもの子どもらしさに牽制されて、立ち止って考えるのはいいなあと思います。

星子にとっての学校行きの意義は何でしょうか。「忘れた、遅れた、さからった」ということをめぐる訓練、矯正が主であるとすれば、星子は今のところ、そういう必要は全くありません。というか、親がさんざん試みて、はしにも棒にもかからないことがわかっているからです。どのように試みても、哺乳ビンをまだはなしません。スプーンで飲ませようとすると、まあ、ちょっと大げさに言えば、三日も飲まずに、平気でいます。そのまま平気で死んでいってしまうというような、実にくやしい感じがします。くやしいと言えば、母親が外出をして私が世話をするとなると、哺乳ビンからも飲まないのです。ガンとして拒否します。

くやしいと言えば、もう一つ先があります。妻が二十何年ぶりかの同窓会ということで、島へ帰ったときのことてす。瀬戸内の島てすから、当然何日か留守をすることになります。すると、妻が家を出たとたん星子は私にぺタペタまつわりついて、哺乳ビンて飲んだり、おじやを食べたりするのです。ふだんは、私のひがみばかりでなく、私のことを、風呂入れ人ぐらいにしか見ていなくて、私に対して大変冷淡なのです。それが、なんだかわからないけれど、状況判断をして態度を変えるのです。実にくやしいではありませんか。

そういう子どもに、小学校の先生が、申しわけないが、規律を教えられるわけがないと思います。

つづきは教育とか福祉について考える(3)


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